| シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
| 2026年9月 | 6日 | 13日 | 20日 | 27日 | 目次に戻る |
| 2026年9月27日 |
| 「惑わされず」加藤豊子牧師 ルカによる福音書21章7−19節 |
◇ ある人たちが、神殿が見事な石と奉献物で飾られていることについて、話していました。イエス様の時代のエルサレム神殿は、ヘロデ大王によって40年をかけて立派な建物に改築されたものです。その大理石の美しさは、数キロ離れた所からも見えたと言われています。 ◇ 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(6節) 聞いていた人々はさぞ驚き、戸惑ったことでしょう。神殿は人々の心のよりどころでもあり、その崩壊は国が滅びることをも意味したのではないでしょうか。 ◇ 「先生、では、そのことはいつ起こるのですか…」という問いに対し、主イエスは「惑わされないように気をつけなさい。」と言われました。そしてイエスの名をかたる偽者が現れること、戦争や暴動についても言及されその後に、こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである、と語られました。 ◇ 「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(18,19節) 「忍耐によって」とありますが、忍耐することと、自力で我慢することとは違うのではないでしょうか。わたしたちは、主イエスに結ばれた者であるからこそ、希望を持って耐え忍ぶことができるのです。戦争や天変地異だけではなく、わたしたちは思いがけない危機に直面することがあります。どのようなことが起こっても、主イエスにつながり、とどまり続けることによって、命を得るものとなりなさいと招かれています。あなたがたの神の毛の一本も決してなくならない、そこまでわたしたちは神に愛され、神のものとされた者なのです。 ◇ 世の終わりとは、主イエスが再び来られることによって、神の救いが完成する時であります。その日を待ち望みつつ、愛のわさに励む者であるようにと招かれているのです。 |
| 2026年9月20日 |
| 「献げる心」加藤豊子牧師 ルカによる福音書20章45−21章4節 |
◇ 律法学者たちへ向けられた、主イエスの厳しい非難の言葉。その後に、貧しいやもめが献金を献げる姿について語られています。 「彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」(46節) 長い衣は、宗教的指導者であることのしるしであり、挨拶され、上席に座ることを好むという姿には、自分たちは特別な扱いを受けて当然だという思いが見て取れます。また「やもめの家を食い物にし」(47節)という言葉からは、この世の富を求める姿が示されています。 ◇ 「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」この厳しい言葉は弟子たちに向けられたものであり、その後に続く教会の指導者たちにも向けて語られているのではないでしょうか。 ◇ その後、主イエスは神殿で金持ちたちが賽銭箱に献金を入れているのを見ておられました。一説によると、神殿の婦人の庭の壁を背にして、ラッパのような形をしたものが13個並んで置かれていたそうです。まだ紙幣が流通していない時代、金持ちたちは大量の硬貨を入れたことでしょう。その後、貧しいやもめが入れたのは、レプトン硬貨2枚でした。100円位の金額です。 ◇ 「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(3.4節) このやもめは少ない予算、生活費でやりくりしながら暮らしていたことでしょう。その生活費をすべて入れた、という言葉が意味することは何でしょうか。生活費という言葉には、人生、生涯という意味があります。お金というよりも、彼女の人生、生活のすべてを神に委ね、差し出すようにして生きている姿がそこにあるのではないでしょうか。人の目、評価を気にするのではなく、神様に心を向けて献げている姿がそこにあります。 |
| 2026年9月13日 |
| 「誰のものか」加藤豊子牧師 ルカによる福音書20章20−26節 |
◇ 祭司長、律法学者たちは「イエスを殺そうと謀った」「イエスに手を下そうとした」のですが、民衆をおそれてどうすることもできませんでした。そこで彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえようとしました。 ◇ 「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(22節) これは、イエス様を陥れるために用意された、実に巧みな質問でした。人々は、イエス様が自分たちをローマの支配から解放してくれる王となってくれるのではないかと期待していました。そのような中で、皇帝に税金を納めることを肯定すれば、人々は失望することになるでしょう。反対に、税金を納めることを否定すれば、ローマに反逆する者として、総督に訴えることができる。どちらに答えても、主イエスを追い詰めることができると考えたわけです。 ◇ 主イエスはデナリオン硬貨を見て、誰の肖像、名前が刻まれているのかと問われ、彼らが「皇帝のものです」と答えると、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。皇帝の支配と、神の支配は並んで存在しているのではない。あらゆるものは、神の権威、支配の元にあり、その支配が及ばないところはないことが示されています。 ◇ 「神のものは神に返しなさい」この言葉は先ず、民の指導者たちに向けて語られています。ぶどう園のたとえ話では、主人から託されたぶどう園を自分のものとし、さらにその跡継ぎまで殺した農夫たちのことが語れていました。それは、民の指導者たちの姿そのものでした。 ◇ また「神のものは神に…」この言葉はわたしたちすべてのキリスト者に向けても語られています。わたしたちが持っているすべてもの、時も宝も、また能力もすべて神から与えられ託されたものです。日々の生活の中で、そのことを覚えるものでありたいと願います。 |
| 2026年9月6日 |
| 「隅の親石」加藤豊子牧師 ルカによる福音書20章9−19節 |
◇ エルサレム神殿で、民衆が皆夢中になってイエスの話に聞き入っていた、とありました。ここでも主イエスは、人々に向かってあるたとえをお話されています。このたとえ話の登場人物は、ぶどう園を作った主人、それを借りた農夫、農夫たちのところへ送られた僕、さらに送られた主人の息子、です ◇ ぶどう園の主人とは神様のことであり、ぶどう園は神の民をあらわしています。農夫たちとは、民の指導者、指導的な立場にある人々のことで、この畑の管理を任されています。収穫の時期になって主人が僕を送ると、袋叩きにして追い返された。そのようなことが3度繰り返されました。主人のもとから送られた僕とは、預言者たちのことでしょう。その悔い改めを呼びかける言葉は拒否され受入れられませんでした。さらに主人は、「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子なら多分敬ってくれるだろう。」と息子を送ります。しかし農夫たちは「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って、息子を放り出して殺してしまいました。 ◇ この農夫たちは、大変な思い違いをしています。農園は主人のものであり、主人から託されその管理を任されているに過ぎないのです。それを自分のものとしてしまっているのです。本来は、主人と共に収穫の喜びを分かち合うことが期待されていたのではないでしょうか。 ◇ 「家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった。」(17節) 隅の親石とは、アーチ状の建築物の一番上、真ん中に据えられる要となる石のことです。ポンテオピラトのもとに引き渡され、十字架に架けられたイエス・キリストは、まさに人々に捨てられた石のようでしたが、このお方が神の救いの業の中心、救い主となられたのです。 ◇ わたしたちも様々なもの、自分の人生も丸ごと神様からお預かりしたものです。託されているものにどう向き合っているのかも問われているのではないでしょうか。 |