【福音宣教】 「 敵とは誰か」

「私たちに反対しない人は、私たちの味方です」(マルコ9:40)

主イエスは十字架への道をいよいよ歩みだされます。ガリラヤ湖湖畔の漁師たちには「私について来なさい」(マルコ1:12)と語り、彼らを召しました。ペテロが「あなたはキリストです」との告白に神の霊によって導かれた時、イエス様は「自分の十字架を負って従ってきなさい」(8:34)と弟子たちの歩む道をさらに深めて示しました。しかしながら、弟子たちはイエス様の御心が理解できず、「神の国では誰が一番偉いのか」などとこの世の競争社会さながら立身出世争いの道を論じ合っていました。そこでイエス様は、弟子たちが「自分の十字架を負って歩む道」とはどのような歩みなのかを、弟子たちに丁寧に説明されたのです。

第一に、主の弟子たちは「先に立とう」としてはならない。むしろ「後ろに立つ」(35)ものとなりなさい。そすれば、前にいる全員が良く見え、観察でき、理解できるから。

第二に、主の弟子たちは「仕えられる者」ではなく「仕える者」(ディアコノス)になりなさい。
奴隷のように自分の意志をもたない牛馬に等しい存在ではなく、誇り高き「執事」として、与えられた賜物を生かして誠実に「仕えなさい」。

では、誰に仕えるのでしょうか。

1)神様に仕えることは言うまでもありませんが、幼子(36)を真ん中に立たせ、このような幼子を受け入れ、仕えなさいと弟子たちを諭しました。

幼児は「無力で無価値な小さな者とされた存在」の代表とみなされていました。この世の中で「小さくされた者たち」つまり、競争社会から弾き飛ばされ、ついていけなくなり脱落したり、落ちこぼれたり、最初からレースに出場さえできない者たち、スタートラインにさえ立てない者たち、無価値とされた、貧しい人々のことです。彼らを顧み、受け入れ、大切にし、仕えなさいと願われたのでした。競争社会ではみんな上に目が向いています。これを「ヒラメ」人間というそうです。上司や自分にとって益となるような利用価値の高い人ばかりに目を向けて、媚びて仕える人のことだそうです。

宣教師嫌いで有名だった、内村鑑三が心から尊敬した宣教師に、イギリスから来たバックストン宣教師がいました、日本の中国地方山陰地方で伝道し、人々の魂に響く神の言葉を語った謙虚で謙遜な宣教師でした。ある日、地方議員が訪ねてきたとき、「先客があるので1時間待ってください」と言われ、「俺を待たせるとはどんな偉いさんが話しているのか」イライラしながら待っていると、ドアが開いて、中から小さな子供が出てきて、お辞儀をして帰っていったそうです。何の肩書もない小さな子供をも尊重するバックストン宣教師のスピリットに心打たれます。彼は「仕えられる人ではなく仕える人になれ」(マルコ10:45)とのイエス様の教えを生活の中で生きていたのです。 

2)今日の個所には、若い日のヨハネが登場します。ヨハネは後に「もっとも愛に満ちた使徒」と呼ばれましたが、若い時はイエス様から「ボアネルゲ・雷の子」(マルコ3:17)とあだ名で呼ばれるほど気性の激しい若者だったようです。ヨハネが「イエスの名によって悪霊を追い出している者たちがいるので、やめさせました。私たちについてこないからです」(38)とイエス様に報告しました。12弟子や70人の弟子たちのように「悪霊を追い出す権威」をイエス様から与えられていないにもかかわらずイエス様の名を使って活動していた人々がいたようです。勝手にそんなことをしてけしからん!どんな資格で、誰から許可をもらってそんなことをするのか、許せん」とばかり高圧的に力づくでやめさせようとしました。するとイエス様は「やめさせるに及ばない。私たちに反対しない者は私たちの味方だ」(40)とヨハネを諭しました。イエスの御名には神の子としての権威と力がありましたから、悪霊たちが恐れおののいたことは間違いがありません。すべての権威はイエス様ご自身にあり、悪霊が恐れたのは弟子達ではなく神の子イエス様ご自身です。ですから「私の名によって悪霊を追い出し、その結果、イエスの名を信じた人々を神のもとに連れ戻す働きをしているならば、私たちの敵ではなく味方なのだ。排除してはならない」と、幅広い寛容性を「仕える者」の特質として弟子たちに教えたのでした。イエス様が弟子たちに願っている「仕える者」の第一は、「小さき者たちを受けいれる」愛の深さでした。第二に、「寛容性」あるいは広い「包含性」でした。包含性を英語でインクルージョンといいます。多様性(ダイバシティ)とともに一人一人が神の国のためにそれぞれの個性や賜物を生かして喜びをもって仕え、献身している状態を指します。

実は、旧約時代に偉大な指導者であるモーセも同じ寛容性を示している出来事が民数記11:27-28に記されています。勝手に預言をすることを禁じようとしたヨシュアに対して、モーセは彼らが預言することを容認しました。神の民として預言を語り、神の言葉を証しすることは望ましいことだからと許したことが記されています。

ヨハネが憤慨したように、許可も得ず公認もされず、勝手にイエスの名によって悪霊を追い出すようなことを許していては秩序が乱れ、混乱が起こり、却ってイエス様の名が貶められるのではないでしょうかという心配もわからないではありません。しかしヨハネは「私たちの仲間ではないのでやめさせた」(38)と、強烈な仲間意識という壁をもって分け隔てをしていたことをイエス様は憂慮されたのです。許可がいる、資格がいると垣根を造って自分たちの特権性や安全性を確保し、そうじゃない者を排除しようとする「選民意識」の芽をイエス様はヨハネの中に見たのではないでしょうか。だからそうしたエリート意識の芽を早めに摘み取られたのでした。それは十字架を負って仕える者にふさわしくない考えだからです。イエス様の弟子たちも教会も、エリート意識、選民意識をもって、境界線を内側に引いて、他を排除してはなりません。非寛容な狭い了見ではなく、大きな包含性、包み込んで賜物を生かしていく姿がキリスト教会の麗しい姿といえます。仕える者の基本的姿勢ではないでしょうか。

イエス様は「良い麦の畑に毒麦が蒔かれたので急いで刈り取りましょう」と申し出た農夫に対して主人が「そのままにしておきなさい。毒麦と一緒に良い麦も刈り取ってしまうかもしれないから」(マタイ13:15-40)とのたとえ話をされました。イエス様は「良い麦は御国の子、毒麦は悪しき者の子、収穫というこの世の終わりの時に御使いたちによって毒麦は刈り取られ火で焼かれる」と説明されました。終末の時に、神の時に神がすべてを明らかに区別される。それまでは人が短絡的に、判断してはならないとの教えが込められています。

諸国を巡回しているユダヤ人の魔除け祈祷師のある者が「イエスの御名を唱え、パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる」と悪霊に向かって言ってみたところ「イエスを知っているしパウロも知っているが、お前たちは何者だ」と飛び掛かり、傷を負わせたので彼らは逃げ出したというできごとが使徒19:13には記されています。

仕える者の具体的な心構えの一つに「寛容性」「包含性」が挙げられていることを覚えましょう。元図書館司書だった伊達牧師が、川沙央さんが図書館のバリアフリー問題を取り上げた作品「ハンチバック」を紹介してくれました。2023年芥川賞受賞作品です。重度障碍者たちは、自分で本を持てない、指でページをめくれない、「障害者は本など読まない」という発想で「取り残されている」と。「誰一人取り残されない図書館」つくりと心の中のバリアフリーをこの作品で強烈に世に訴えたのでした。

「対立しないものは私の味方」である。心の中の見えない壁を取り払い、神に「仕える者」として忘れてはならない大切なスピィリットをイエス様から学びたいものです。