
「何の権威によって、これらのことをしているのですか。誰があなたにこれらのことをする権威を与えられたのですか」(マルコ11:27-33)
私たちは今、マルコの福音書から、イエス様の最後の1週間の歩みを学んでいます。日曜日にエルサレムに入城されたイエス様は、翌月曜日、神殿の「異邦人の庭」を占領して商売をしていた両替商人や犠牲の動物を売る者たちを激しく追い出されました。そして火曜日、再び神殿にのぼり広場で民衆に教えておられると、祭司長、律法学者、長老たちがイエス様を取り囲んだのです。彼らはユダヤ社会における宗教的・政治的・司法的な最高権力機関「サンヒドリン」の構成メンバーでした。大祭司を議長とする70人のエリート集団であり、ローマ総督の許可が必要な「死刑執行」を除けば、事実上すべての権力を握る最高権力者たちです。かつてないほど強力な敵対者が、武装した神殿警備隊の厳重な監視のもと、イエス様を包囲しました。そして尋問を始めます。「一体、何の資格や権威があって、こんなことをしているのか」と。
1. 人も国家権力も恐れない主イエス 30代前半の若者であれば、あまりのプレッシャーに立ちすくみ、ビビってしまうようなシチュエーションです。しかし、イエス様はただ一人、この巨大な国家権力・宗教権力に対して毅然と立ち向かわれました。イエス様は彼らに対し、「ヨハネのバプテスマは天からのものか、地からのものか」と問い返されます。「天から」と答えれば、「ではなぜヨハネを信じなかったのか」と責められます。「地から」と答えれば、ヨハネを預言者と信じる群衆から暴動が起きる恐れがあります。過ぎ越しの祭りで興奮状態にある群衆を前に、これ以上騒ぎを大きくしたくないという政治的保身から、彼らは「わからない」とはぐらかし、答えを避けて逃げました。現代の政治家が追及された際に「記憶にございません」と連発する姿そっくりです。イエス様は「それなら、私も答えない」と沈黙されました。神の真理に堅く立つイエス様の圧倒的な霊的姿勢に、私たちは襟を正される思いがします。
歴史の中で、このイエス様の姿勢に倣った人がいます。宗教改革者マルティン・ルターです。 1517年、一人の修道士・大学教授にすぎなかったルターは、免罪符(贖宥状)の販売に疑問を投げかける「95箇条の論題」を発表し、「人は善行やお金ではなく、ただ神の恵みと信仰によってのみ救われる(信仰のみ)」と主張しました。その結果、ローマ教皇から破門され、さらに神聖ローマ帝国皇帝カール5世によって帝国議会に召喚されます。皇帝や諸侯が並ぶ最高権力の真っ只中で「著書を撤回せよ」と迫られたルターは、一晩祈り、翌日こう宣言しました。「私は聖書と言い分(良心)によって捉えられています。撤回することはできません。私はここに立ちます。これよりほかに、私はなしようがない。神よ、私を助けたまえ。アーメン」ローマ教皇や皇帝という地上の最高権威よりも、「聖書への信仰」と「自らの良心」に従うという、命をかけた宣言でした。こうして世界の歴史は大きく変わったのです。私たちキリスト者も、時に世のプレッシャーに直面しますが、相手の真意を見破り、ある時は反論し、ある時は沈黙し、ある時はユーモアをもって答える。そのような、人に隷属しないキリスト者としての心構えを、大いに学びたいものです。
2. 天からの権威――真の愛に裏打ちされた権威
では、イエス様のこの毅然とした「権威」は、一体どこから来るのでしょうか。 地上の宗教家やラビたちの権威は、著名な師匠に学び、先輩ラビたちの按手(公認)を受けるという「地からのもの(人間がお互いに与え合うもの)」にすぎません。しかし、イエス様の権威は「天からのもの」です。ですが、ここで私たちは誤解してはなりません。イエス様の「天からの権威」とは、単に超自然的な力で人々をねじ伏せ、恐怖で支配するような権威ではありません。マルコの手紙 10章42〜45節】 イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の統治者と認められている者たちは人々を支配し、また偉い人たちは人々の上に権力を振るっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、みなの奴隷になりなさい。 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
これこそが、イエス様の権威の本質です。 イエス様が月曜日に宮きよめをされた際、激しく怒り、縄で編んだ鞭を振るわれました。しかし、それは相手を傷つけるための革の鞭ではなく、利権にまみれた構造を正すための「愛の鞭」でした。我を忘れて暴力を振るったのではなく、厳しさの中にも常に魂への思いやりとあたたかさがありました。何より、この一切の権威を持つ神の御子が、最終的に選ばれたのは「十字架で呪いの死を遂げる」ことでした。罪びとである私たちのために、ご自分のいのちさえ十字架で捨てるという、究極の「仕える姿」を示されたのです。死に至るまで神の御心に従順であったイエス様を、神は三日目によみがえらせ、天の右の座に着座させられました。復活されたイエス様はこう宣言されます。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)
イエス様の真実な権威は、徹底的な「十字架の愛」に深く根ざし、裏打ちされています。愛のない権威や権力はやがて廃れ、無に帰します。十字架の愛を抜きにした権威は、すべて偽りの権威です。しかし、主イエスの権威は、私たちを愛し、命を捨ててくださった「真実の愛」だからこそ、永遠に揺るがないのです。
私たちキリスト者は、今、この「愛に裏打ちされたキリストの権威」のもとに置かれています。 ですから、私たちを脅かす悪しき霊の攻撃や、世からのプレッシャーがどれほど強くても、恐れる必要は一切ありません。ルターは、先ほどの言葉に続けて『キリスト者の自由』の中でこう書き残しています。「キリスト者は、すべての者のうえに立つ自由な君主であり、何人にも従属しない。キリスト者は、すべての者に仕える僕(しもべ)であり、何人にも従属する。」
キリストの愛の権威に守られている私たちは、地上のいかなる権力にも隷属しません。教会の中にはいかなる上下関係も、支配・被支配の構造も存在しません。牧師も信徒も、すべては「万民祭司」として、ただ一人、私たちを愛してくださるキリストにのみ聞き従うのです。そして同時に、私たちはキリストに倣い、愛をもって互いに仕え合う者へと解放されています。
圧倒的な権威をもって、しかし同時に、こぼれるほどの深い愛をもって、主は今日も私たちの人生と教会を導いておられます。このお方がともにおられるゆえに、私たちは今日も恐れることなく、大胆に一歩を踏み出していきましょう。