【福音宣教】 「 誰が一番偉いのか」

「誰でも一番先になろうと思うものは、一番後になり、みんなに仕える者になりなさい」(マルコ9:35)

昔から「親の心、子知らず」とよく言われます。親がどれだけ子供のことを愛情をもって養い育ててきたことか、子供たちは親の苦労を知らず文句ばかり言っていることを嘆いたことばです。もっとも子供にしたらそれなりの言い分はあって、ああせいこうせいと上から目線で指示命令をする、ただただうるさい存在、人権侵害、産んでくれと頼んだ覚えはないとまで反抗する子もいるようです。

ガリラヤ地域で神の国の福音宣教を終え、エルサレムでの十字架の道を歩みだそうとされるイエス様のこころを、弟子たちはなかなか理解できませんでした。イエス様が二度にわたって「メシヤの受難」、十字架の死とよみがえりを予告しても、弟子たちには通じませんでした。

カぺナウムのおそらくペテロの家で12弟子たちが車座になってイエス様を囲んだ時、イエス様は弟子たちに「ここに来るまでの道中、なにを論じていたのか」(33)と尋ねました。彼らは道々、「誰が一番偉いのか」とひそかに思いめぐらし、小声で話し合っていたからでした。

考えてみれば、弟子たちばかりでなく、「誰が一番偉いのか」と常に競い合い、他人と比較して優劣をきめることは、私たちの日常生活の中に、学校や職場ばかりでなく、スポーツや政治の世界においてもしっかりとしみ込んでいます。今、冬季オリンピックが開催され連日、誰が金メダルをとったかというニュースで盛り上がっています。競争社会という現実の象徴的祭典でありながら、試合が終わればノーサイド、仲間同士お互いの健闘を称え合う光景にすがすがしさを覚えます。
    

さて、イエス様は先陣争いをする弟子たちに、「誰でも一番先になろうと思うなら、一番後になり、みんなに仕える者になりなさい」(35)と諭しました。この聖書箇所から今朝は3つのことを学びましょう。

第一に、イエス様はこの世界で一番になろうとする努力や意欲を否定されたわけではありません。イエス様はニコデモや会堂司や百人隊長といった偉い人、高い地位にある人を毛嫌いしたわけではありません。イエス様自身が多くの弟子たちの中から12人の弟子を選んでおられます。

あるキリスト教の幼稚園では、運動会で、1着2着3着と着順を決めることをやめたそうです。順位争いは聖書的ではない、みんなゴールできたら「はなまる」と考えたようです。おそらく競争すること事態が聖書的ではないと考えた上での判断だと思いますが、みなさんはどう思いますか。

ある教会の社会人青年会で「職場で出世することを願うのは聖書的かどうか」が論じられたそうです。結論がでなかったので教会で信頼されている役員に尋ねたそうです。すると彼は「昇進するということは自分の奉仕の場が広がることであるから、そのために努力することは間違ってはいない」と明快に答えたそうです。この人は職場における自分の地位を「奉仕の場」と理解し、受けとめ、誠実に勤めに励んでいたのです。私はこの役員さんは本当に成熟した信徒だと敬意すら覚えました。

イエス様が問いかけられたのは競争における「順位」の問題ではなく、「目的と手段」の問題でした。

一番になり、上の地位について、優越的立場から人を支配したり見下したり、自分の私利私欲のために権力をもちいて人を利用しようとする傲慢さ、あるいは人間の尊厳を平気で踏みにじる抑圧的な暴力を、イエス様は否定されたのです。各自に与えられた賜物の良い管理者となって、能力や賜物を磨き上げ伸ばしていく、あるいは他の人々の益のために用いていくことは、神が喜ばれることであると私は思います。むしろ与えられた賜物を土の中に埋めて放置しておくことのほうが、もったいない、非聖書的といえるのではないでしょうか。

第二に、イエス様は「順位」にではなく、その「役割」に焦点をあてておられます。

イエス様は「一番先になろうと願うなら、一番後になり、仕える人になりなさい」と語りました。一番先を走る人は何が見えているでしょう。自分が目指すゴールです。もし、後ろの人を見ながら走れば、きっと転倒してしまうことでしょう。一方、一番後ろを走る人は何が見えるでしょう。自分の前にいるすべての人を見ることができます。野球でいえばキャッチャーのポジション、サッカーでいえばゴールキーパーのポジションと言えます。全体が見えるのです。後ろが見えず前だけ見ている人と後ろから全体を見ている人とは視野の広さが異なります。そして「みんな」が見えるから、みんなに仕えることができるのです。先頭を行く人のことも見え、真ん中の人も見え、後ろの人も見え、調子のいい人も調子を落としている人も、むしろ今は少し休息したほうがいいと思える人も見え、疲れ果てて倒れかかっている人も見えます。いろんな人を見ることができるから、理解ができ、理解できるから仕えることができるのです。一番後ろは劣ったポジションではなく、とても大切なポジションなのです。社会におけるキリスト者の位置取りとしては、一番後ろは最もふさわしい場所といえます。

さらに、イエス様は弟子たちに「仕える人」になりなさいと「役割」を明確に示されました。仕える人というギリシャ語は、自分の意志や誇りを持つことがゆるされない「奴隷」を指す言葉ではありません。大きな屋敷の食卓の「給仕をする人」を指すことばです。単なる皿運びの役ではありません。仕える家族の健康のため、料理長と相談し、最善の料理を考え、届ける役目を果たす人を指します。この言葉はやがて、家の主人や家族から信頼され多くのことを任される「執事」を意味することばでとなりました。後に「奉仕者」と訳されるようになりましたが、執事は主人の言いなりの召使とは異なります。一番後ろに自らを位置づけることができる、「意志と誇り」を内に秘めた奉仕者なのです。世の光、地の塩となれといわれたイエス様のことばにも通じるのではないでしょうか。

第三に、イエス様はペテロの家の中で走り回っている元気な幼子(4-5歳の子を指す)をちょうど捕まえて、真ん中に立たせ、動かないように抱きしめ、「この幼子たちの一人を私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのです」(37)と、弟子たちを諭しました。イエス様の時代も今も、子供たちのかわいらしさや無邪気さや純粋性といった愛されるべき特性は変わりませんが、イエス様の時代の子供たちの社会的立場はとても低く「無力・無価値な存在」「やっかいで手のかかる存在」とみなされていたそうです。しかし、そうした「無力で無価値な存在」とみなされている人々を顧み、受け入れなさい、それが私を受け入れて生きる弟子たちの姿であるとイエス様は語りかけておられるのです。
彼らを虐げたり、さげすんだり、支配したり、私利私欲のため利用したり、抑圧したり、人権を傷つけたり、無視したりせず、むしろ愛しなさい、親切にしなさい。それが、一番後ろに位置どり、「仕える人」として生きる神の子たちの具体的な姿だと教えておられるのです。これこそが、この
世で小さくされた者たちに対して仕える者とされた、イエス様の弟子たちが、そして教会がそそぐ「まなざし」ではないでしょうか。御国の民とされたものたち一人一人のやさしさ、隣人愛のかたちといえます。それが立ち位置なのです。

カぺナウムに戻る道々、弟子たちは「誰が一番偉いか論じ合っていました」。私たちは自分の人生という道の途上で、はたして何を論じ合って生きているのでしょうか。自分自身と何を話し合っているでしょう。「誰が一番偉いか」などと競争意識に無自覚に追い立てられていないでしょうか。この時の弟子たちのように、「主イエスのこころ、弟子知らず」になっていないでしょうか。

主イエスが十字架の道を歩まれるならば、弟子たちもまた自分の十字架を負って主に従いゆくことが求められています。もしこの競争社会の中で自分の立ち位置を探すとしたら、喜びと誇りをもって、自ら進んで一番後ろに立つ者、そして「仕える者」とさせていただくことではないでしょうか。
私たちの主イエスもそのように歩まれたのですから。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 

(マルコ10:45)