
「わたしを信じるこの小さな者たちの1人をつまずかせる者は、むしろ大きな石臼を首に結びつけられて、海に投げ込まれるほうがよいのです」(マルコ9:42)
京都を代表する人物の一人に 江戸時代前期に活躍した儒学者(人間としての生き方を教える)
伊藤仁斎がいます。 3000人もの弟子たちが学んでいたそうです。 彼は「春風を持って人に接し、秋霜を持って自らを律する」という有名な言葉を残しています。人には優しく温厚寛容であり、自らには厳しく律する」ことを説いたそうです。
現代人は人には厳しく自らには甘く という悪しき風潮がある中で この言葉は爽やかさを覚えます。
さて、今日の聖書の箇所には色々な 教えがちりばめられているように見えますが、要約すると「主の弟子たちは神の国に入るために 他者をつまづかさないように寛容であること、その一方で自らがつまずかないように厳しくあれ」という主イエスの教えになります。キーワードは「つまずき」です。つまずきとは、人が道を歩くときに小石や木の根っこにつま先が引っかかって転倒してしまうことを指します。
41。節では「キリストの弟子だからという理由で水いっぱいでも飲ませてくれる親切な人は、必ず神様からの報いを受ける」と約束されています。 神様はその小さな行いさえも目を止めておられるお方だからです「キリストさん」「教会さん」と気軽に声をかけて教会のためにいろいろ手助けしてくださる未信者も実際多くいらっしゃいます。神様の祝福を祈るとともに、そうした方々もまた神様によって導かれている大切なお一人として、彼らをつまずかせてはならないという教えになっています。
42節では「私の弟子である小さな者たちをつまずかせるものは、石臼を首にかけて 海に投げ込まれた方がまだましと思うほどのさばきを受ける」と教えられています。 ここで言う小さなものとは、先週学んだ12弟子や70人の弟子に入らない、名もない 多くのイエス様を信じる人たちを指しています。ここで用いられている石臼は、ロバに引かせて穀物を粉にする非常に大きな石臼を指しています。首に巻きつけて沈められたら海の底に沈んで二度と浮かぶことはない。それほど強烈な表現です。つまりイエス様を信じる人はお互いが大切な仲間、味方、家族なのだから「つまずかせてはならない」と教えているのです。 先週、学んだように若き日のヨハネのように、自分たちのグループの仲間じゃないからイエスの名によって悪霊を追い出す働きを「やめさせた」というような高圧的な優越意識によって他の信者をさばくことはやめなさい。他の仲間をつまずかせるなとイエス様は弟子たちに説いたのでした。まだまだ小さな群れです、それが仲間割れや対立をしていたとしたらいかがなものでしょう。むしろ、「恐れるな、小さな群れよ。御国をくださることはあなたがたの父の御心です」(ルカ12:32)との約束を結び目として、相違を超えて一つに結ばれるべきではないでしょうか。分断ではなく連帯こそ、イエスの弟子たちのしるしです。
43-48節では、誰が一番か2番かといったこの世の競争意識に流され、つまらないことで争ったり、論じ合ったりする弟子たちの様子を見て、イエス様は「神の国に入り命を得るか否かが最も重要なことであり、自らの救いのために目を開きなさい」と弟子たちを覚醒させておられます。もし、自分の救いをつまずかせてしまうようなものが存在するならば、「投げ捨てなさい」「切り捨てなさい」 と命じています。 なぜならば、神の国に入ることができなければ、ゲヘナ(地獄)と訳される言葉が示すような、永遠の滅びと刑罰が間違いなく待っているからです。
聖書は、「永遠の救いか、永遠の滅びか」 二者択一の応答を聞く者に求めています。 いのちを得るか、ゲヘナの消えない火の中に落ち込むか 、2つに1つしかないと教えているのです。昔からこの点で多くの議論が専門家たちの間で議論されてきました。「滅び」というのは永遠に苦しむことなのか。それとも完全に消滅してしまうことなのか。もし、永遠に苦しむとすれば神の愛と矛盾しないのかなどなど。しかし、聖書は「永遠の命があれば、同様に永遠の苦しみもある」と断言しています。だから人生において、最大の決心を求めているのです。2つの道の選択を前に、あなたはどちらを選ぼうとされますか。第3の道は残念ながら存在しません。「つまずき」の反対語は「信じる」ことです。イエスをキリストと信じて永遠のいのちの道を歩みましょう。
誰が一番偉いか、そうでないか、誰がベスト10に入るかどうか、この世の争いごとは些細なことにすぎません。最も重要で重大なことは、「永遠の命を得るか滅びるか」 その決断その選択にあると聖書は教えています。 イエス様は全ての罪人が救われるために十字架で死に、身代わりとなって神の裁きを受け、私たちのすべての負債を帳消しにしてくださいました。その目的のために、10章から、イエス様はいよいよエルサレムへ旅たち、十字架の道をまっすぐ見つめ、歩み始め出して行かれます。ペテロは後に主イエス様の十字架について目が開かれ、解き明かしました。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」(1ペテロ2:24)ヨハネも 同様に、ヨハネ3章16節で「御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と信仰による救いを強調しました。
49節では、「 全て火によって塩漬けられる」と、主イエス様は弟子たちに教えています。
旧約時代、幕屋あるいは神殿で神に捧げられた奉納物は塩で味付けられたそうです。塩は「清さ」の象徴です。イエス様は「塩気」を失ってはならない、保ちなさいと語っています。 新約聖書における「きよさ」は罪、汚れのない完全さを意味する言葉ではなく「神の国とその義をまず求めなさい」と教えられている一途さ、ふた心のなさ、神の国とこの世といつも天秤にかけて右や左に、上や下にと揺れ動くことがない一貫性、一途に神の国に目をとどめ、歩き続ける心の一心さを意味する言葉です。
信仰とは「あまたの神々の中で、イエス様を選び取ること」と 簡潔に表現できます。 1つを選んだならそれを全うすること。 信仰が大きい小さい、立派まだまだ未熟だと何を基準に測っているのでしょうか。「私はイエス様を救い主として選びました」と一途に信じて歩むことが「こころの清さ」なのです。 この意味で「こころの清い人は幸いです。神を見るからです」とイエス様は教えてくださいました。そしてこのことは、神の側から見れば「私があなたを選んだ。あなたは私のものだ」と、この世から選び分かってくださり、この世の中から神の恵みの御手の中に包みこんでくださったことを意味します。これが聖書的な「聖さ」の原点であり、救いなのです。それゆえイエス様は「お互いが和合しなさい」(50)つまり仲良くしなさいとイエス様は弟子たちに語り、メッセージを締めくくられました。
やがてヨハネはイエス様のこの言葉を、ヨハネ13章34節-35節で「あなた方は互いに愛し合いなさい」と表現したのでした。 しかも イエス様の十字架の死と復活を目撃し、自らも神の恵みに生かされる喜びを知ったゆえに、イエス様が語られた大切な一文を忘れず書き加えているのです。「私があなた方を愛したように」(34)、互いに愛しなさいと。こうしてヨハネは若き日の偏狭なセクト主義から解放され、十字架の愛に根ざした「兄弟愛」を生涯にわたって語り続けたのでした。 後の時代の人々は、このようなヨハネを「愛の使徒ヨハネ」と称し、慕い、従ったのでした。