
「それゆえ人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体となるのです。それでもはやふたりではなくひとりなのです」(マルコ10:7-8)
今週の土曜日は若い二人の結婚式が教会堂で行われます。近親者中心の結婚式ですが祝福をお祈りください。さて、超高齢社会、少子化の波が収まらない日本ですが、日本の婚姻件数は2002年をピークに減少傾向にあり、2024年の統計では年間約48万組が結婚し、約18万組が離婚。約3~4組に1組が離婚する計算(特殊離婚率)となるそうです。結婚5年未満の離婚が全体の約3割を占め、特に2年目が高いデーターが出ています。
20年以上の長期同居カップルの熟年離婚も増加していています。離婚の主な理由は、男女ともに「性格の不一致」がトップ。男性は「家族・親族との不仲」、女性は「生活費を渡さない」といった経済的な問題や家庭内暴力が上位にランクインしています。それでは、2000年前のイエス様の時代はどのような状況だったのでしょうか。
1. モーセの離縁状を巡って
イエス様がガリラヤ伝道を終え、ユダヤとヨルダン西岸からエルサレムに向かわれる途上の出来事です。パリサイ人たちがイエス様を試そうと「離婚は許されるか否か」(2)と問いただしてきました。領主ヘロデアンティパスが弟の妻を離婚させ自分の妻としたことを糾弾したバプテスマのヨハネを投獄し斬首したショッキングな事件の後ですから、彼らはイエス様がどう答えるか、イエス様の出方を窺っていました。当時パリサイ派の人々は「モーセは離縁状を渡すならば離別することも許している」(4)と考えていました。彼らの根拠は申命記24章1節「女に恥ずべきことがあり、好まなくなったら離縁状を書いて家を去らせなければならない」に基づいていました。厳格なシャンマイ派は「恥ずべき事とは不貞・姦淫のみ」と限定していましたが、民衆の支持者が多かったヒレル派は「何かの理由があれば良い」と解釈していました。料理がまずい、大声でしゃべる、ほかに良い女性が現れたからでも、理由はなんでも良いとされていました。
ひどい話ですが、2000年前のイエス様の時代の社会では、女性や子供は奴隷と同様、父親や夫の所有物であり、個人の尊厳などは認められていませんでした。ユダヤの法律では離婚を申し出る権利は女性にはまったく認められていなかったとのことです。離婚された女性は生きていくためにひたすら極貧に耐えるか売春婦になって食いつなぐしかないといわれるほどの劣悪な社会環境に置かれていたそうです。離縁状を正式に受け取ることができた女性は、90日経過すれば、他の男性と再婚する道も開かれたそうですが、もし離縁状がなければ再婚の道は「姦淫」とみなされ閉ざされていました。そうした時代背景を考えると、離縁状は非情な夫のもとで苦しむ女性を、その夫から解放するための唯一の救済措置書としての役割を果たしていたというのが実情であり、神の慈しみのあらわれと言えます。
さて、イエス様は「離婚は許されるか否か」というパリサイ人の問いかけにどのように応答されたのでしょうか。
5節で、「モーセが離縁状を渡すように命じたのは、あなたがたのかたくなさのゆえである」と答えました。男性中心・絶対的な家父長制度のユダヤ人社会の中で、男性や夫たちが「頑なで不従順で神に従おうとしない」ゆえに、弱い立場にある女性や妻を救うために「譲歩して」、口頭ではなく文書にして手渡すように命じたのが離縁状であると告げました。夫が妻を好き勝手に、夫に与えられた「当然の権利」として行使し離婚することは、神のみ旨ではないとはっきり宣べたのでした。11節でも、だれでも妻を離別して、他の女を妻とするならば、前の妻に対して「姦淫」を犯すのである」と、男性の横暴さをイエス様は厳しく戒めています。
妻も同様であるとされていますが、ユダヤ社会では妻から離婚を申し出ることは認められていませんでしたから、特別裕福な階級に属する異邦人の女性への言及かもしれません。同じ並行記事のマタイ19:9節では、男性のみに適用されています。この一句をもって、「離婚者の再婚禁止」を主張する教会もあるそうですが、あまりに字義的な極端な解釈といえるのではないでしょうか。
2. 結婚の祝福
6-9節でイエス様は「離婚」問題ではなく「結婚」そのものに焦点をあて、結婚をデザインされた創造主である神の教えをパリサイ人や民衆や弟子たちに解き明かされました。
申命記よりも古い創世記1:27節を中心に彼らをほんらいの神の御心に立ち返えらせようとされたのです。「父母を離れ、その妻と一心同体になるのです」(7-8節)、「神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(9節)とのイエス様の宣言に、結婚に関する神の御心と祝福が込められています。
現代の日本社会では夫婦は同等の立場にあり、結婚も離婚も両者の同意を必要とします。そして男女が人生で出会って、互いに惹かれ合い、結婚を決心し、仏式、神式、キリスト教式、あるいは宗教性を廃した人前式であれ、社会的な承認と家族と周囲の人々の祝福を受けて、挙式し、新しい家庭を築きます。もっともその時の感情的な高揚感、幸福感がピークであとは下がり続けていくともいわれています。作家の三浦綾子さんは「結婚式は誰でも簡単にできるが、結婚はふたりの愛情と決意によって保持され続ける必要がある」と語っています。決して愛情だけでは結婚は維持できないのです。結婚の真の絆は、人間同士の愛情以上に、創造主なる神のご計画によると聖書は教えています。これこそが二人を健やかな時も病の時も、順境の時も逆境の時も、いつまでも結びあわせる真の力なのです。
第一に、「父母を離れ、妻と結ばれ、二人は一心同体になる」と結婚の本質が語られています。「結ばれ」と訳された言葉は「膠(にかわ)でくっつける」という意味をもちます。無理にはがせば必ず傷ついてしまうほどの強い一体性を指しています。「父母を離れて」とは精神的な分離・独立、自立と自律性を意味します。両親の保護からも両親への依存からも脱却し、ふたりのことは二人で責任をもって話し合って解決する「成熟性」を教えています。逆を言えば、「両親は口出ししない」という立ち位置を守ることを意味します。どれほど危なっかしくて手を出したくなっても、口をさしはさみたくなっても、「木の上に立って観守る」との漢字の「親」のごとく、自主性を見守ることが求められています。赤ちゃんはへその緒を切られて、初めてひとりの人間として成長していくことと同様です。
第二に、「神が合わせたもの」(9節)とは、「一つのくびきを負う」という意味を持つそうです。二人が向き合って生きるだけではなく、同じ方向を向いて、同じ歩調で歩み、神から託された「地をおさめる」(創世記1:28)というミッションを共に果たすことが期待されています。その目的のための「良き助け手」として共に生きることが求められているのです。農夫は牛とロバを同じ頸木で決してつなぎません。神様はアダムの助け手としてゴリラやライオンや象を連れ来たのではなく、アダムのあばら骨から造ったエバを結び合わせてくださいました。同じ骨、同じ肉、同じ血を分け合うパートナーとして結び合わせました。同じ頸木を負って、共に長い人生を歩むためには、私たち自身がまずイエス様と同じ頸木を負って歩んでこそ、結婚した夫婦もまた共に歩み続けることができるのではないでしょうか。
「わたしは心優しくへりくだっているから、あなたがたもわたしの頸木を負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に休みが来ます」(マタイ11:29)
第三に、「引き離してはならない」(9)とあります。離縁するという法律用語ではありません。離婚の絶対禁止のことばではありません。「引き離すようなことがあってはならない」という意味です。なぜなら、結婚は無関係の二人がこの広い世界で偶然出会って結ばれるというのではなく、神のご計画の中で二人は出会い、結ばれ「ひとりになった」からです。本来、エバはアダムのあばら骨で造られました。したがって本来は一つであったものが、神によって再び結び合わされ「一体性を回復」したという奥義を意味しています。ですから再び分割するようなことは本質的にありえないとイエス様は教えておられるのです。
3. 離婚は権利ではなく、悔い改めに対する神の赦しとして
結婚生活は現実的には、お互いの弱さや罪深さの中に置かれています。イエス様は創世記から結婚について、本来のあるべき姿、理想像を解きあかされました。しかしアダムとエバは神の前に罪を犯し、その結果、責任をなすり合い、木の陰に恥ずべき姿を隠してしまいました。人間社会の中では、残念ながら理想と現実との間には断絶がありギャップがあり、落差があります。理想像ばかりを振りかざして現実への健全な対応ができないことを「教条主義」といいます。世界中で夫婦間や家族間で何一つ問題がないという家庭などは皆無ではないかと私は思います。皆さんのご家庭ではいかがでしょうか。
家庭内の悲劇の一つにDV、家庭内暴力があり、法律で規制されてもおさまる気配がありません。殴る蹴る首を絞める罵倒する性的暴力をふるう、生活費を出さない、外で働かせない、すべての人間関係を断ち切るなど、家庭内の小さな出来事ではなく、もはや重大な人権侵害や犯罪行為といえます。話し合う余地はもうほとんどなく、日常的な暴力を見ている子供たちへの心理的影響は計り知れず、「脳が壊れていく」とまで表現した子供の体験談があります。警察や弁護士が介入して、別居そして法的に離婚することが再出発の始まりになるケースも多くあるのです。離婚以外の方法で解決が見つからない場合は、離婚を認め、再婚の可能性に配慮することも、教会の牧会的支援として必要な時があります。
英国の聖書学者バークレーは「事実上、破壊されている結婚生活を継続することが困難な場合、相手のためにそして子供のためにも、自分の罪に対する責任を負いつつ、最終的帰結として離婚という結論に至らざるを得ないという、長い道のりの最後においてのみ考えられる例外的可能性として離婚はありえる。再婚を禁じるべきではない」と現代キリスト教倫理学の中で記しています。アメリカの教会を訪問した時、礼拝の前に大人用のサンデイスクールが数多く持たれ、その中には薬物中毒の人をサポートするグループや離婚した人々を支援するグループなどがあり、互いに祈ったり聖書から支え合ったりしている光景を見て、成熟したキリスト教会の姿、隣人愛に生きる教会の姿を学ばせていただいた覚えがあります。
私たちは聖書を通して、神が願われている本来の結婚の在り方、意義、目的を教えられています。と同時に、罪深い人間の欲情と損得で動く世俗世界と環境の真っただ中で、日々の生活を過ごしています。「蓮の花はどんな泥沼の中でも純白な花を咲かす」ことができるように、すべてのクリスチャンには、置かれた環境がなんであれ、霊的なキリストにあるいのちが与えられています。復活されたイエス様の御霊のいのちのゆえ、神の願われる結婚と家庭生活を大切にしつつ生きていくことがゆるされています。
一方、イエス様は私たちの弱さ、罪深さ、すべてをになって十字架で死なれました。十字架は人間の破れ口に立てられています。人間の破れ口に主は立ち、破れた者にいつでも手を指し伸ばしておられる救い主であり、癒し主なるおかたです。このお方は私たちの弱さに同情できないお方ではありません。それゆえ私たちは離婚という痛み、悲しみ、傷つきを胸の奥に抱えている人々が、癒され、立ち直り、再び幸せになり、幸福な結婚生活を過ごせすことができるように、その道を閉ざしてはなりません。イエス様がそうなさったように、手を差し伸べ、新しい道が祝福されることを祈りつつ、共に喜ぶ者でありたいと心から願います。
若い世代が主に愛され、祝福される結婚へと導かれるように祈りましょう。そして、主によって導かれた家庭が主イエスの愛を映し出していく器であるように祈りましょう。
「こういうわけでいつまでも続くのは、信仰と希望と愛です」(1コリント13:13)