【福音宣教】 「子供と神の国」

「子供たちを私のもとに来させなさい。邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものです」(マルコ10:14)


昨日は若い二人の結婚式を教会で執り行いました。私の結婚式でもないのに、久しぶりの教会での結婚式と司式でしたからどっと疲れました。新生活を始めたふたりの上に神様の祝福をお祈りください。

さて、マルコ福音書の10章に入り、結婚と離婚の問題、子供の問題、そして財産の問題が取り上げられてきます。これらは日常生活における大きな問題でもあり、私たちは聖書から多くの学びを得ることができます。イエス様は弟子たちに「自分の十字架を負って従ってきなさい」と弟子の心得を語りました。私たちには一般的な解決策や知識と共に「十字架から差し込む光の中」で一つ一つの問題を解決していく霊的な視点が与えられていることを忘れないで覚えましょう。

エルサレムを目指して旅を続けるイエス様の前に、今度は親に連れられて多くの子供たちがやってきました。当時、著名なラビと呼ばれる律法を教える先生たちに手を置いて祈っていただくならば、神様の祝福を受けることができると考えられていたからです。日本の場合、大相撲の人気力士たちに赤ちゃんを抱っこしてもらうと強い男の子になれるという習慣とも似ています。

ところがイエス様の弟子たちが子供たちを制して、来させないようにしたため、イエス様は弟子たちを大変厳しく叱りつけました。「子供たちを私のもとに来させなさい。邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものです」(14)と。さらに16節では「子供のように神の国を受け入れる者でなければ決して入ることはできない」とも付け加えました。

Ⅰ.  神の国はこのような者たちのものだ

1)イエス様の時代は今から2000年前の時代(日本ではまだ弥生時代の中期)です。封建的な男性中心社会の中で、幼児たちは「女・子供・奴隷」とひとくくりにして呼ばれるほど身分は低く、社会的価値は無きに等しいものでした。彼らは父親の所有物であり財産の一つであったと言われています。確かに幼児たちは、かわいいかもしれませんが、無力で母親がいなくては生きていけない弱い存在でした。

イエス様が幼い子供たちを指して「神の国はこのようなものたちのものだ」と言われた時、人々はきっと驚いたに違いありません。なぜなら神の国に入るには、旧約聖書に記されている神の戒め(律法)を学び、ことごとく守らなくてはならないと教えられていたからです。律法を学び、律法を守ることで人は救われ、神の国に入ることができると教えられていたからです。つまり、どれほど良い行いを重ねたか? どれほど立派な功績を遺したかが神の国に入る基準だと考えられていたのです。そしてその基準から判断すれば、律法を学ぶこともできない、守りこともできないような幼子たちが神の国に行けるわけがないと考えられていました。「かわいさだけで天国へはいけない」、神によろこばれる多くの功績が必要であると考えたのでした。ところがイエス様の教えは、彼らとは全く異なっていたのです。

2)イエス様が、「幼子のような者たち」と言われた時、そこには象徴的な表現が含まれていました。「幼子のようなもの」とは、自分の中に何一つ誇るような功績もなく、自慢できるような立派さもなく、むしろ自分の力の弱さ、小ささ、無力さ、愚かさ、そして何よりも罪深さを自覚しており、自分で自分を救うことはできないから、救ってくださる助け手が必要だ、救い主が必要だと自覚している人々を指しています。この世には2種類の罪人しかいません。自分は罪ある人間であると自覚している罪人と、自分は正しく潔癖で間違いなど何一つ犯していないと自慢している罪人の、どちらかです。

イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マルコ2:17)と言われました。霊的な意味での幼子たちすなわち、自分の罪深さを自覚して助けを必要としている弱き者、力なき者、いさお無き者を招くために来てくださったのです。もし、完璧完全な人ばかりであるなら、イエス様が十字架にかかる必要はまったくありませんでした。

3)霊的な幼子たちの特徴は、受け入れる柔らかな心です。「子供のように神の国を受け入れる者でなければ決してそこに入ることはできません」(15)と、強調点は子供のようになることではなく、神の国を受け入れる態度、つまりこころを開くやわらかさです。

「こころの貧しい人は幸いです、天の御国はその人の者だからです」(マタイ5:1)と主イエスはガリラヤ湖を見下ろす丘の上で語っておられます。神の御前で誇れるものを何ひとつ持っていない、からっぽだから、イエス様が与えてくだる神の国(神のご支配)をまるごと受け入れるしかないのです。

世の多くの宗教が教える救いの道は「行いによって義とされる道」ですが、聖書が教える救いの道は「主イエスキリストの十字架の愛と恵みと赦しを知って、イエスを私の神、私の救い主を信じて生きる道」です。あなたはどちらの「天国への道」を選びとりますか。

イエス様はこのようなたとえ話をされました。ある農園の持ち主が葡萄の収穫の時期になったので人手が必要となり、早朝6時から広場に出かけ働く人を賃金1デナリ(日当1万円)で雇った。それでもまだ足りないので、午前9時にも、12時にも、午後3時にも同じように雇った。ところが夕方5時になってもうあと日没まで1時間しかないにもかかわらず、雇って農園に連れてきた。賃金を払う時刻になって、1時間しか働けなかった、ほぼ何もできなかった人にみなと同じ1デナリが最初に支払われた。このたとえ話を聞いて不公平だとほとんどの人は思うはずです。たくさん働けば働くほど、がんばればがんばるほど、多くもらえると考えているからではないでしょうか。しかし神の国の法則は異なっています。多く働いたものも少ししか働けなかった者も、「賃金を払おうとの約束」を信じたものに、分け隔てなく同じ恵みが与えられたことです。

多かれ少なかれ天国へ行くにはなんらかの功績、行いが必要だとの考えをイエス様はこうして根元から引き抜いて、御子を信じる信仰のみで十分であると移し替えようとされているのです。人は価なくして、価なきゆえに救われるのです。「信じる」ことこれがすべてです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死か  らいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」                  (ヨハネ6:40)

Ⅱ 子供たちに神の国を

16節をみると「イエス様は幼子を抱き上げて、頭に手を置いて祝福された」とあります。この光景はイエス様が幼子たちを心から愛されていたことを私たちに教えています。イエス様が笑顔で子供たちと接している光景が生き生きと浮かび上がってきます。子供たちもイエス様が大好きだったのでしょう。しかめっ面をした怖いおっさんの所に幼子たちは近づきません。暗く冷たい雰囲気を漂わせるような歩く地下室のような人のもとに子供は近づきません。彼らが私のもとにくることを邪魔してはならないと主イエスは語りました。肯定的に言えば、「私のもとへ連れてきなさい」という招きにもなってるのではないでしょうか。

私たちは今日、子供たちのために祈る必要があります。貧困と飢餓と戦争の最大の犠牲者はいつも子供たちです。子供たちの自殺も決して少なくありません。

子供たちが全員大人になるわけではありません。大人になる前にいのちを散らしてしまう子供たちも決して少なくないのです。教会は子供たちの救いのために祈る必要があります。では、今の教会に、私たちに何ができるでしょうか。

教会学校の再開、子ども食堂、保育園に入る前の子供とお母さんの教室、フィリピンや貧しい国の子供たちのチャイルドスポンサーになって教育を受けられるように支えてあげる支援、さまざまな働きが考えられます。現実的に考えれば高齢化した教会ではマンパワーの不足は否めません。

イエス様は子供を抱きあげ、祝福されました。一度に10人も20人も抱き上げたわけではありません。きっと一人一人の名前を聞き、一人一人を抱き上げ、祝福して下さったことでしょう。イエス様が見せてくださったこの方法ならば、私たちにできることではないでしょうか。

今の私たちの教会員の年代構成では、2つのことが考えられます。

1) 孫たちにイエス様のすばらしさを語り、救いを祈り、教会につれてくることが第一にあげられます。私たちは自分たちの孫のために、ひ孫のために祈り、イエスさまのすばらしさを語り続ける語り部にはなりえます。イエス様のことを話してくれるおばあちゃん、おじいちゃんという役割が託されています。

2)50歳後半から60歳代の方々なら、子供さんが大学生や社会人2-3年目が多いのではないでしょうか。学生時代とはことなり、社会の荒波の中に漕ぎだし、特に上下関係や縦割り組織の中で「人間関係」で悩む経験を多かれ少なかれ味わいます。彼らに教会は、神の言葉による平安と祈りの場を提供できるのではないでしょうか。彼らの目に教会は、なんの魅力も感じない自分とは縁遠い、異次元の世界として映っているのでしょうか。彼らの必要を満たす豊かさを主イエスは与えてくださることができるはずです。

祈り始めれば、神は御手を動かされます。主イエスがこの世という荒野で道に迷い、助けを求めている迷える羊をきっと、探し出して、ここに導いてきてくださることでしょう。そのことを信じましょう。

「子供たちを私のもとに来させなさい。邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものです」(14)