【福音宣教】 「富める青年の悲しみ」

「マルコ福音書の10章に入りあなたに欠けているものが一つある。帰ってあなたが持っているものをすべて売り払えい貧しい人たちに与えなさい。                 そうすればあなたは天に宝を積むことになります。そのうえでわたしに従ってきなさい」(マルコ10:21)


エルサレムに向う旅の途上、第三番目にイエス様のもとに1人の人が駆け寄ってきました。彼は富める・資産家で、若者(マタイ)、役人(ルカ)という高い地位についていました。イエス様が来られるということで、この機会を逃がさぬように駆けよって膝まずき、自分の長年の疑問を尋ねたのでした。「永遠のいのちを得るにはどうしたらいいのでしょう」(17)と。こういう魂の渇きをもつ若者たちが教会に押し寄せてくると言いのですが・・。

イエス様のことを「良き先生」と呼びかける人間的な彼の思いを、イエス様はすぐさま「良き者は神ただ一人だ」(18)と、神に焦点をあてて訂正されました。まじめで熱心な青年ですが、いくつか重要な思い違いをしていたからです。その思い違いを正そうと、「あなたに一つ欠けていることがある」主イエスは彼をいつくしまれました(21)。彼は2つの思い違いをしていました。

1.  永遠のいのちは嫌の財産のように「受け継ぐ」ことはできない

彼が語った「受け継ぐ」という言葉は「親から財産を受け継ぐ」という言葉だそうです。若くして要職につきたくさんの資産を持つ身分でしたから、ほとんど親から受け継いだものでしょう。世の中には土地も家も財産も社会的な職業や身分さえも、そのまま親から「受け継ぐ」恵まれた人も存在します。「親の七光り」とも言います。しかし、永遠のいのちは、親から受け継ぐことは決してできないし、どんなに札束を高く積み上げてもそれは買い取ることなど決してできません。「血肉は神の国を受け継ぐことはできない」(1コリ15:50)のです。親から譲られる財産目録に「永遠のいのち」は含まれていません。私たちは、朽ちることのない天の資産を受け継ぐことに喜びを見出す者でありたいと願います。

2.  永遠のいのちは行いによって得ることはできない

彼は幼いころより律法を学び、まじめに生きてきたことは疑う余地がありません。幼い時から「すべて守ってきました」とイエス様に向って即座にはばかることなく答えることができました。そして「何が足らないでしょうか」と補足するべきことがありますかと聞いてきました。

モーセの10戒がもう一つ増えて11戒になったとしてもきっと彼は守ったことでしょう。律法学者たちが説く613の戒律(すべきこと248、してはならないこと365)が10増えて623になってもきっと守りますと言い切るほど熱心で真面目でした。真面目で几帳面でよく勉強して戒律も丸暗記していましたっが、彼の自負は、イエス様の一言でもろくも崩れてしまいました。「では財産を売り払って貧しい人に施し、私について来なさい」(21)。イエス様の指摘は、今まで積み上げてきたものに何かをさらに付け加えることではなく、今まで彼が一生懸命、積み上げてきたものを崩してしまうということでした。


戒めは少年時代からずっと守ってきたと彼は自負していましたが、レビ記(19:18)の「隣人を愛せよ」という戒めの実践はできていなかった。知識があっても行いがなかったのです。
おそらく彼には、財産を手放すこと、しかも貧しい人に施し、救済支援に充てること、親が据えた基盤から独立して生きることなど思いもよらなかったことでしょう。恵まれた環境の中で表面上、戒律を守ることは十分できたし、これからもできることでしょう。親の資産を管理することもでき、今まで以上に増やすことも可能かもしれません。しかし、富を貧しい人に分け与えることなどは考えられなかったようです。隣人を愛せよというレビ記の教えを知ってはいたが、それを生活の場で実行に移すことを学んでいなかったようです。

さらに、もっと根本的な欠けが一つありました。それは「永遠のいのちを得ること」も「神の国に入ること」も、「救いを得ること」も置き換えることができる同じことを意味していますが、彼は自分の良い行いによって獲得できると考えていたことでした。一番大切な根本的なことが間違っていたのです。

一人のユダヤ人としてユダヤ人社会の中で生きてきた青年としては、戒律を守ることによって天国に入ることができるという教えも、財産が増し加わり裕福になることは神の祝福を受けているしるしであると考えることも当然のことでした。そのように教えられ自分自身も思い込んでいました。ところがイエス様の教えは根本的に違っていました。違っていたからこそ「福音」「よき知らせ」と言われているのです。永遠のいのちは人の行いによって得られるものではない、人の宗教的な熱心さによって獲得するものでもない、親から譲られる「財産目録」の中に「永遠のいのち」は含まれていない。含まれていないどころか、反対にしばしば、その持ち物の豊かさが永遠のいのちに至る道の最大の妨げにもなりうる可能性が高いのです。

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」
                               (1テモテ6:10)

では永遠のいのちを得るにはどうすればよいのえしょうか。

4.  永遠のいのちを与えることは、神にしかできない神の御業です

イエス様のもとを立ち去った富める若者の失意に満ちた姿を見て、戸惑う弟子たちに対して、イエス様は「金持ちが神の国に入るのは難しい」それは「ラクダが針の穴をくぐりぬけるようなものだ」(24-25)と説明しました。動物の中でも非常に大きなラクダが、穴の中ではもっとも小さい針の穴の中を通ろうとするようなもので、「不可能だ」とイエス様は語ったのです。驚いた弟子たちは「それでは誰が天国へ行けるのですか」と尋ねると、イエス様は弟子たちをしっかりと見つめて(27)「神にはできないことはない」と最も重要なことを語りました。

人が救われるために、永遠のいのちを得るために、神の国に入ることができるために、神にしかできない神の御業が必要なのだ。そのため「私はエルサレムへ行く」つまり「神の子の十字架の贖罪、身代わりの死」が必要なのだ、そしてやがて弟子たちが目撃し、その「証人となる」復活が必要なのだと、イエス様はここに至って最も深い神のみむねを教えておられるのです。

「人には決してできないこと、神にしかできない救いの御業」それこそが、メシヤの十字架の苦難と死でした。弟子たちには理解できなかったことです。ユダヤ教の指導者たちのパリサイ派にとっては「メシヤの苦難と死」などはあり得ないこと、サドカイ派にとっては「復活」などはあり得ないことでした。しかし、すでに700年も前に偉大な預言者イザヤによって、神の大きな御業としての「メシアの苦難」が預言されていました。

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの 病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:3-5)

神にしかできない、いいえ、神だからこそご計画することができた救いの御業とは、十字架の死と復活による永遠のいのちの贈り物です。救われるための行いを一切必要としない無代価で差し出される神からの贈り物、信じる者だけが受け取ることができる神からの贈り物が「永遠のいのち」なのです。救いは人の業や功績の中からではなく、天からくるのです。のちにヨハネは語りました。「御子を信じる者はひとりも滅びることなく、永遠のいのちを得る」(ヨハネ3:16)と。

イエス様はエリコの町で金銭欲に取りつかれ支配されていたザアカイを救いへと導きました。彼は財産の半分を貧しい人に施しますと告白し、富の支配からキリストの恵みのご支配へ移されました。彼の心の中心が富と名声から、キリストと神の御国へと移動したのです。

全財産を施すことは救われるための条件ではありません。それは結果なのです。人間の努力や精進の力によってではなく、神だけが実現してくださる、御子イエスキリストの「十字架の救い」を信じ、受け入れ、キリストに従うことのみが求められているのです。

イエス様のもとを悲しげに立ち去った若者はこの後、どうなったでしょうか。金銭欲の塊であったような収税人のザアカイが救われ、著名な律法学者ニコデモとエルサレムの裕福な資産家であったアリマタヤのヨセフが、イエス様の遺体の引き取りをローマ総督ピラトに申し出て、自らもまたイエスの弟子であることを証ししたことを、彼は聞いてどうしたでしょうか。

相変わらず自分の資産を頼みとする人生を歩み続けたか、それともどこかで悔い改め、主イエスキリストと共に歩む神の国へ通じる道を選びなおしたでしょうか。私はそうあってほしいと願っています。この若者に、一度、注がれた主イエスキリストの「いつくしみ」のまなざしは、決して変わることなく彼を富への執着から解放し、神への信頼へと立ち帰えらせた違いないと私は信じます。皆さんはいかがでしょうか。

「神の国とその義を第一に求めなさい。」(マタイ6:33)とのイエス様の招きが聞こえてくる思いがします。

「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、                      天にたくわえられているのです。」(1ペテロ1:3-4)