【福音宣教】 「イエスキリストの十字架」

「そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」訳すと                                                   「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(マルコ15:34)

今週は受難週、金曜日が受難日、そして日曜日はキリストの復活を祝うイースターです。

今日、配布された受難週の黙想の手引きを参考に、イエスキリストの十字架の道のりを聖書から順次たどりましょう。2000年前に、エルサレムの郊外のカルバリの丘と呼ばれた死刑上で執行されたイエスキリストの十字架の死を単なる過去の歴史的事件として理解するだけでなく、今を生きるこの私とどのような深い関係性があるのかを黙想しながら日々過ごしたいと願います。カリバリの丘に立てられた十字架は、私の人生と心の中に立てられた十字架であるとの真理に導かれれば幸いですね。

新約聖書の4つの福音書には、イエス様が十字架につけられた時に語られた「7つの言葉」がそれぞれ記録されていますが、マルコ福音書ではそのなかのただ一つの言葉だけが、しかもギリシャ語ではなくイエス様の時代に一般に話されていたアラム語で記録されています。そこには、主イエスキリストの十字架の死に関するマルコ自身の深い思いが込められていると思われます。今日の中心聖句は34節、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「訳すとわが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですかという意味である」。

Ⅰ.  神に見捨てられるとは

1) 十字架の極刑は、ロ-マ人が考え出した最も残酷な死刑方法だと言われています。死刑囚の両手両足を十字架に組んだ木に釘付けし、炎天下の中で死ぬまで放置する方法です。大量の出血、渇き、関節の激痛、禿げたがが舞い降りて内臓を食いちぎる、あまりの激痛に発狂したり、最後は力尽きて呼吸困難で窒息死する。ですからローマ帝国に反逆する政治犯にのみ課せられた見せしめの極刑でした。処刑者はローマ帝国という目に見える国家から必要がない存在として見捨てられ抹消されたのでした。

そもそもユダヤ人にとっては、「木にかけられた者はすべて呪われた者である」(申命21:23)とされていましたから、イエスの死は人から捨てられただけでなく、神からも捨てられた死そのものでした。死刑囚として残酷な刑罰を受けて「死ぬ」というだけでなく「神にのろわれ、神に捨てられる」という「絶望的な死」を意味していました。地上の国だけでなく、天の国からも見捨てられるまさに究極の絶望を意味しています。

2) 時折、自分の思い通りに物事が運ばない時、あるいは思いもよらない病気や事故といった厳しい状況にさらされるとき、私たちは「神に見捨てられた」ように感じたり、思ったりすることがあるかもしれません。でも「ようにではなく」、主イエスは「神に捨てられた」のです。しかも神に見捨てられるようなことは何一つ行われなかった罪なき正しい人が見捨てられたのです。常に神と共にあり、神の御心のただ中を歩まれた人が見捨てられたのですから、こんな理不尽なことはありません。

3) 世の中には神に見捨てられる前に、「神を見捨てたような生き方」をしている人々が多くいます。「神などはいない」「神など信じるのは愚かな人間だ」と神を否定したり、反対に自分を神のごとく偶像化して自己中心に生き、罪に罪を重ねて平然と生きている人もいます。神に見捨てられてもいたしかたないと思えるような人とは異なり、神と共に歩んだ人が見捨てられた、それがキリストの「十字架の死」なのです。

4) 人間の悲劇の一つは「孤立」と「疎外」と言われています。イエス様の生涯はある意味、孤独の連続といえるのではないでしょうか。実の家族から誤解され否定され(3:20-21)、故郷から拒絶され(6:1-6)、移り気な民衆からも「十字架につけろ」と拒絶され、一番弟子のペテロからも「その人は知らない」と否定され、本来ならば弟子の一人がイエス様の十字架を背負って死刑上に向かうはずであるのに逃げ出し、旅の途上であった見知らぬ通行人のクレネ人シモンが十字架を背負ったほどでした。そして最後は「神からも捨てられた」のです。もし「絶望的な孤独」があるとしたら、イエス様だけが担われたのでした。

5) ある注解者が「私たちは生物的な死を恐れるが、死の本質を知らない。死はこの世との断絶でもあるが、なによりも神との断絶であるが、そのことを知らないでいる。そのため、本当に死を恐れることができないのである。」との趣旨を記していました。私たちは肉体の死をしかも自分ではない他人の死しか知っていません。自分の死はいまだ経験していませんからどれほど怖いものかわかっていません。ましてや神から「完全に切り捨てられる」という永遠の死の経験がどれほどのものかだれも経験することも語ることも表現することもできません。それを罪なき生涯を送られたイエス様が、父なる神と共にいつも歩まれ、「神よ」などと他人行儀の言葉など一度も使われたことのないイエス様が、「神よ、どうして私をみすてられたのですか」と、叫ばれ、私たちに代わって味わってくださったのです。          本来、神を否み、神に背を向けて生きている私たち自身が経験すべき、「神との断絶という絶望」を。これを神の愛といわずして何というのでしょうか。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」 (ロマ5:8)

Ⅱ 勝利の叫び

37節で「主イエスは大声で叫ばれた」とあります。一体、何を叫ばれたのでしょう。ヨハネ19:30では「すべてが終わった、完了した」、ルカ23:46では「父よ、わが霊を委ねます」と大声の内容が解き明かされています。普通、死の間際では体力を使い果たし、声も出ないはずです。にもかかわらず主イエスは大声で叫ばれました。これは絶望のあまりの叫びではありません。むしろ勝利の宣言でした。すべての人間を罪とその結果である死をもって支配している闇の力、サタンに対する勝利の宣言でした。「死よ、お前の勝利はどこにある」この勝利宣言は、3日後72時間後の主イエスの復活によって世界中に響き渡りました。しかしその前に、主イエスが十字架上で息を引き取られた午後三時に、新しい世界がすでに始まっていたのです。

1) 午後12時から全地を覆っていた暗闇の中に光が差してきました。

2) 旧約時代の救いを象徴する神殿の聖所と至聖所を隔てる幕(エペソ2:14-15)が上から下まで裂けました。神殿における儀式制度が終焉を迎え、キリストが十字架の上で流された血による「新しい契約」による救いの道が開かれたことを象徴しています。

「わたしが道であり真理でありいのちです。私を通してでなければだれも父のみもとにいくことはできません」(ヨハネ14:6)。

3) そして十字架刑を執行したローマの百人隊長が「この方は本当に神の子であった」(39)との信仰告白へ導かれました。これはやがてペンテコステの日を境に始まる異邦人世界に対する福音宣教の始まりを示す預言的な言葉となっています。事実、主イエスの十字架の死から百年も経たない間に、ローマ帝国の各地に次々と教会の礎が築かれていったのでした。

4) 最後に、2000年後の現代に生きるこの私にも、新しいいのちの道が始まりました。

私は21歳の時、「この人はまことに神の子である、私の救い主である」との信仰の告白へ導かれました。高校時代、宣教師から洗礼を受けてはどうかと導かれながら、自分の力で人生は切り開けると、神様から招ねかれたその日に教会を離れてしまいました。大学3年間、神様に背を向けた日々を歩んでいましたが、振り返れば内面は失敗と後悔の連続でした。飲酒運転をして人を傷つけ保険金を保険会社からだまし取るような罪深さに打ちのめされていた時、不思議な神の導きで教会に再び通うようになりました。その時、キリストの十字架の死は、私のための尊い身代わりの死であった、私の罪の赦しと新しいいのちの歩みのための十字架の死であり、神の愛そのものだと知ったのです。クリスマスの楽しい行事や音楽やイベントに引き寄せられたのではなく、キリストの十字架の死と愛にダイレクトに導かれたことはわたしにとって最大の幸せだったと思います。キリストの十字架が、罪深さを知った私の心の中に立てられたからです

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「訳すとわが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)

究極の終わりの日、この言葉を私が苦悩の中でうめき叫ぶかわりに、キリストが叫んでくださったことを覚え感謝にたえません。