
「驚いてはいけません。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのでしょう。あの方はよみがえられたのです。
ここにはおられません。御覧なさい。ここがあの方の納められた所です」(マルコ16:6)
イースターおめでとうございます。イースターとは十字架で死なれたイエスキリストが3日後に復活されたことを記念しお祝いするキリスト教の祝日を指します。
Easterの訳イースターとの言葉は、ゲルマン民族の春の女神「エストレー」が語源となってると言われています。光と闇の時間が同じとなる春分の日に、春を告げる女神の祭りが催され、長く暗い冬からいのちが芽吹き新しいいのちが誕生することから、キリスト教の復活を祝う日・イースターとして後に教会が取り込んだと言われています。欧米ではイースターの日には「主はよみがえられました。ハッピーイースター」 と挨拶が交わされるそうです。
さて、マルコの福音書はイエスキリストの復活について記していますが、最も大きな特徴は「墓の中が空であった」という記述です。
そこでまず、マルコの福音書に従って キリストの復活の出来事を時間的に見てみましょう。 キリストは金曜日の朝、十字架刑に処せられ、午後3時に息を引き取りました。 おそらく午後4時には十字架から遺体が取り下ろされ、アリマタヤのヨセフが用意した、岩をくり抜いて造られた「洞窟の墓の中」に納められました。ユダヤの国では金曜日の日没から安息日が始まり一切の労働が禁じられますから、あわただしくイエス様の遺体は葬られました。墓の入り口には、大きな石を転がすための溝が掘られ、石を転がして墓の入り口をふさぎました。3日後の日曜日の朝女性の弟子たちがイエス様の亡骸に改めて香油を塗ろうと墓へ出かけて行きました。
彼女たちの心の中には、「あの大きな石を一体、誰が動かしてくれるだろうか」という心配がありました。ところが墓に着くとすでにその大きな石は脇に転がされていました。婦人たちが不思議に思い、墓の中に入ってイエス様の遺体を探そうとしたところ、墓の中はすでに空になっていたというのです。一体何が起きたのでしょうか。すると墓の中に白い衣をまとった若者の姿をした御使いが、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」(マルコ16:6)と告げたため、彼女たちは 驚き 恐れてそこを逃げ出したと、マルコは記しています。
1. 大きな岩で塞がれた墓
1)イエス様が葬られた墓はその入り口が大きな石でふさがれました。力のない女性たちではその岩を到底動かすことができません。ですから一体誰が石を取り除いてくれるだろうかと彼女たちは大きな不安に包まれていました。私たちにも自分の力では取り除くことができない大きな岩が行く手を塞いでいないでしょうか。私たちの人生の道を塞いでしまうことがないでしょうか。
2)何よりもそれは「罪と死の大岩」です。罪には2種類あります。人に対する罪と神に対する罪です。死にも2種類あります肉体の死と、その死後にある神のさばきと永遠の死です。考えてみれば 生まれてから一度も罪を犯したことがないという人はおそらく 1人もいないことでしょう。医学の進歩で不治の病といわれていた重病を克服したという方はおられるかもしれませんが、死を完全に克服したという人は今だ1人もいません。
3)私が子供の頃、日本で一番強い人はプロレスラーの力道山でした。空手チョップで次々と悪役レスラーたちを叩きのめしていく姿に熱狂しました。ところが 私が13歳の時、(1963/12/8) 力道山は暴力団に腹部を刺され、腸閉塞を併合して1週間後にまだ39歳の若さで急死しました。 あの不死身の力道山がたった1週間であっけなく死んでしまった! 少年時代の私には衝撃であり、「死」を身近に覚える出来事でした。大変な驚きとショックを受け、「人は死ぬ」という現実を思わされたのです。
4)罪と死を取り除くことができない私たち人間は、それゆえに悩み、苦しみます。罪と死の大きな岩を石を誰も取り除くことはできません。しかし人にはできないことも神にはできます。人にできないことこそ、神は可能としてくださるお方なのです。罪と死を前に私たちは無力さを覚えるほかありません。嘆きや悲しみや失望や絶望を一体、誰が取り除いてくれるというのでしょうか。誰が救ってくれるのかと嘆く無力な私たちのために、神はひとり子イエスを救い主としてこの世に遣わし、十字架で身代わりとして死なせ、私たちの罪を償い、全てを超消しとし、赦しを与え、神との和解の道を切り開いてくださいました。
そればかりでなく、神はイエスを死者の中からよみがえらせ、暗い墓に象徴されるような死の力をついに打ち砕かれました。「空となった墓」それはまさに、神がイエスを死者の中からよみがえらせ、一切を飲み込み、命を奪い、闇の中に葬ってしまう人類の最後の敵である死に勝利された決定的な証拠となっているのです。
十字架による罪の赦しと神との和解。復活による死の力に対する勝利と永遠の命の希望。これこそがキリスト教会の不滅の土台となったのです。
「十字架の言葉は滅びに至る者には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力でです」( 第一コリント1章18節))
イエスキリストの復活は死の大岩を取り除き、闇から光の中へと私たちを移してくださる原動力となりました。それゆえパウロは、「もしキリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」「もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいるのです」(第1コリント15章14節、17節)と宣言しています。
2. よみがえられたキリストは今も生きて働かれています。
結核と脊椎カリエスの重病の女性が結婚して双子を出産しました。次男は脳性小児まひと診断されました。長男が小学校に入学するとき、学校へ行けない次男が暴れ、お母さんに怒りをぶつけ、台所の醬油を布団の上にまき散らし、寝てる彼女を打ちたたいたそうです。このまま病気が悪化し死んでしまったほうがましだと彼女は思い、こんな子は生まれてこないほうが良かった、いらない子だと恨み、苦しんだそうです。
ところが弟がやがて近くの教会学校に通うようになり、牧師が家を訪ねて、キリストの救いを語ってくれるようになり、弟も母親もイエスキリストを信じ、クリスチャンになりました。不自由なからだながらアルバイトをしてお金をかせぎ、貧しい家に生活費までいれて支えてくれるようになったそうです。「こんな子はいらない」と心で叫んだその子が、キリストのもとへ自分を導く天使のような存在だったのだと気づき、復活されたイエス様が私たちとともに歩んでくださっていると証しを笑顔でされました。直接そのお話を聞かせていただいた私は、いまもその感動を忘れることはありません。よみがえられた主イエスは生きておられるのです。
3. 初穂としてのキリストの復活
第1コリント15章20節には「しかし今や、キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と記しています。
東京の靖国神社の桜の標本木に5-6輪、花が咲くと、桜の開花が宣言されます。やがて次々と関東地方に桜が一斉に咲きだし、満開となります。京都の二条城にも大阪城公園にも 標本木となる桜の木があり、花が咲くとやがて関西地域一帯に、次々と桜が開花していきます。キリストの復活は、キリストを信じる者たちにとっても、キリストと同じ新しい永遠の命を受け、神の国に生きる確かな、希望と喜びの約束となっています。キリストの復活は私たちの初穂として示されたのでした。信仰は神の御国に入る、入場券のようなものです。すでに愛する家族を天国へ送った方々が多くおられます。信仰者にとって、大切な人の死は深い悲しみですが、同時に確かな大きな希望でもあります。神の国での「再会の喜び」が待っているからです。
復活の出来事は、絶望や諦めの中に置かれ、嘆き悲しむ全ての人にとって、罪が赦され、死が破られ、新しい命に生きる希望と力を与える神様から大いなる贈り物なのです。
「しかし今やキリストは、眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられました」(1コリント15:20)