【福音宣教】 「天の御国に至る道」

「イエスは見まわして弟子たちに言われた。裕福な者が神の国に入ることはなんと難しいことでしょう」」(マルコ10:23)


しばしば一見、理解しにくいような人間の行動にもかならず「意味」があると言われています。

1.従いなさい

1)富める若者がイエス様のもとから立ち去った出来事の続きの個所です。この出来事を通してマルコ福音書は私たちに、「永遠のいのちを得るために必要なことは、律法を厳守しようとすることや善行を積み重ねること以上に、ただ主イエスを信じること、そして主とともに生きることが求められている」と伝えているのです。主はいつも私たちに先立って歩まれますから、結果的に「主と共に生きる」ことは「主に従って歩む」ことになる。

「従う」という言葉は、軍隊では上官の命令に「絶対服従」、「命令違反は軍法会議で処罰」というような強い意味になりますが、信仰の世界ではそうではありません。弟子たちがガリラヤ湖でイエス様から召し出された時、イエス様は「フォローミー」(ついて来なさい)と言われました。私の後について来なさいという招きでした。自分は後ろに控えて安全な場所にいながら、突撃命令を兵隊に下すような一方的な暴力的なあり方では決してありません。自発的献身への招きでした。

2)ヨハネ14章6節では「私が道であり真理でありいのちです」と主は言われました。真理の道、いのちの道、天国へ至る道があるのだからその道を探しなさいという意味ではありません。道ということば(ホドス)は単数形ですから、「私が真理の道でありいのちの道である」と、道そのものであるご自身を指しておられるのです。イエス様を信じ、先立つイエス様についていくならば、おのずと神の国へ行くことができる、それが真理でありいのちであるという意味です。

ジャングルの中を抜けて反対の村へ行くために1人の旅人が現地で少年を雇った。少年は道のないジャングルの中をどんどん進んでいく。心配になった旅人が、「一体どこに道があるんだ」と尋ねると少年は、「道なんかないけど、僕が道だよ。見失わずちゃんとついてきてね」と答えたそうです。

3)威勢のいい教会では、信仰とは「イエス様への絶対服従」と強調します。教会員の士気も高いですが、イエス様に絶対服従できるのは天使だけであり、私たち生まれながらの罪人に絶対服従などあり得ないと私は思います。むしろ集団洗脳されているか指導者への絶対服従を強いられている危険性さえありうるのではと心配になります。先立つイエス様の後を、目に見えなくても信頼し、イエス様の言葉を信じ、イエス様の後についていくことが、「主とともに生きること」であり「主に従うこと」と理解していますが、皆さんはいかがでしょうか。

2. 神の国に入ることは難しい

1)神の国に入ることは難しい、「ラクダが針の穴を通るほうがまだやさしい」とイエス様がお認めになるほど、神の国の入り口は狭くその道が狭く「思えてしまう」のです。なぜならば「持っているものがあまりに大きい」からです

2)本来、神の国への入り口の門は広く、その道も広いのです。天の父なる神様は「すべての人が救われる」ことを願っています。試験にはふるい落とすための試験もあれば、合格するための試験もあります。神の国にはいるために、クリアーすべきたくさんの条件が付けられ、ハードルが非常に高く設定されているわけではありません。「主イエスを信じるならば永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:15,16、6:47)、「あなたもあなたの家族も救われる」という非常にシンプルなものです。

3)ではなぜ「難しい」と思ってしまうのでしょう。それは神の国の問題ではなく、入ることを願う人間の側の問題だからです。イエス様によれば「持っているものがあまりに多すぎ、大きすぎ、がんじがらめにされ、手放すことも減らすことも、もちろんなくすこともできなくなっているからです。」

あの若者の場合は「裕福でお金持ちで多くの資産を持っていた」ため、単純にイエス様についていくことができなかったのです。置いておくべきものが大きすぎたのです。

4)「多く持てば持つほど捨てられなくなる」不思議な現象ですね。家や部屋の中を見れば同じことが言えます。物が増えれば片づけて捨てればいいのに、ますます捨てられなくなりいっぱいになってしまう。捨てるかわりに、もっと大きな部屋がほしいと思ってしまう。豊作でたくさんの収穫ができたので、誰かに分け与えようと発想するかわりに、もっと大きな倉を建てて自分のために蓄えようと思い立つとイエス様がたとえ話(ルカ12:18)をされた通りです。

5)このことはただ単に「資産」の問題だけではありません。主イエスは「あなたの宝があるところにあなたの心がある」(マタイ6:21)と言われました。「むしろ天に宝を積みなさい」(マルコ10:21)とも言われました。

持ち物の豊かさや大きさの問題ではなく、「人生で大切にすべきものは何か」「何に価値を置くか」という「価値にもとづく優先順位」の問題と言えるのではないでしょうか。主イエスは明瞭簡潔にこの点では答えてくださっています。「まず神の国とその義を求めなさい」(マタイ6:33)と。目に見えるやがては過ぎ行く地上のことがらにのみ目をとめ、心奪われ、そこに価値を置くのではなく、目に見えないけれど永遠に存在する神の国に目をとめ、心を向けること。そして神の義、つまり神様との正しい関係を大切に第一とすることを主イエスは奨励しています。もし神様との関係が破れていたり、疎遠になっていたり、音信不通になっていたりしているならば、まず神様と和解し、交わりを回復して、神様と語り合いながら、神のみ言葉と神への祈りの中で日々歩むこと。その価値のすばらしさを喜ぶことです。神は二つの目を創造してくださいました。地上の日々の日常生活の歩みをしっかり見る目と永遠の神の国を仰ぎ見る目です。遠近両方の二つの目の焦点が合わさっていることが健全な信仰生活といえます。

3. 誰が入ることができるでしょうか

1)「では誰が神の国へはいることができるでしょうか」と弟子たちは驚いて質問しました。当時、物質的に豊かになること、多くの資産をもつことは「神に祝福されているしるし」とみなされていました。神に祝福されているはずの若き富める青年が、神の国に入れないならいったい誰が神の国に入ることができるかと弟子たちが驚いたのも無理ありません。一番、天国に近いはずの人がもっとも遠くになるからです。

2)ニコデモも人々から尊敬される高名な律法学者であり、宗教議会の議員という名誉職にあり、社会的にも裕福で、知識と経験と人格においても優れていた神の国に一番近いと思われていた人物でしたが、イエス様は「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない、入ることはできない」(ヨハネ3:3,5)とストレートに語り、当時の伝統的な古い考え方や発想の「大転換」を求めました。富める若者もニコデモも「人間の業」によって永遠のいのちを獲得できるとの考えに立っていました。自分の古い足場とらわれていました。思い違いをしていました。

3)主イエスは永遠のいのちも、神の国もすべては「神の御業」として成し遂げられ、「神からの恵みの贈り物」として与えられるものである。つまり、何らかの功おしや功績によって勝ち取るものではなく、感謝して受け取るべきものであるとの「福音的転換」を教えてくださっているのです。それは主イエスにしか語ることができない福音の「真理」でした。そして自らは「福音」の実質である、十字架の贖いの道とその先にある輝かしい復活の栄光を目指して、エルサレムへと歩まれるのでした。4)これこそ、「人にはできないが神にはできる」(マルコ10:27)唯一の救いの道なのです。

信じるとは神が備えられた唯一の救いの道を歩み続けていくことです。

道ですから、まっすぐな平坦な一本道とはかぎりません。曲がりくねって先が見えない道のときも、急カーブが続く昇り道も下り道もあります。ぬかるんだ泥だらけの道の時もあります。険しい峠道も危険な谷間の道もあります。それでも私たちは歩みます。全力疾走ばかりでなく、中休みの時もありです。険しい峠道にはかならず峠のお茶屋があるものですから、一休みするほうが長旅には必要かもしれません。

でも歩き続けましょう。主の道を。神の国に至る唯一のいのちのこの道を。