【福音宣教】 「天の御国の報い」

「今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を百倍受け、来るべき世で永遠のいのちを受けます」(マルコ10:30)

今日は宇治バプテスト・キリスト教会の年次総会が礼拝後に開かれます。主イエスの祝福を祈り求めましょう。

イエス様のため、福音のために献身し、お仕えし、多くの犠牲を払ったキリスト者に対して「神のみ国でどのような報いが用意されているのか」が、今日のテーマです。

前回学んだように、裕福な青年が資産へのとらわれから自由になれず、イエス様に従えきれずの去って行った出来事を受けて、ペテロが「私たちはすべてを捨てて従いました」(28)と語りました。さらにマタイ19:27によれば、「ついては何がいただけるでしょうか」とペテロがイエス様に尋ねていることが明らかにされています。ペテロの心の中に、「見返りを求める」世俗的な思惑があったことが透けて見えますが、イエス様は、そこはスルーされ、むしろ「神の国における豊かな報いと祝福」について弟子たちに3つのことを語り始めてくださいました。

第一に、「この世においては100倍」の報いを受けるとの約束

第二に、「来るべき世においては、永遠のいのち」を受け継ぐとの約束

第三に、「迫害と試練の中でこの約束は強められ、信仰が深められる」ことです。

Ⅰ. 100倍の報い

1)29節30節には、捨てたもののリストと、100倍になって受ける祝福がリストアッされています。100倍とは数字の問題ではなく、「十分すぎるほどの有り余る恵みと祝福」を意味しています。家は財産、家族は繁栄、畑は土地を代表し、この世の幸福の三条件にもなっています。特にユダヤ人にとって「畑」というのは先祖から受け継ぐ土地-「嗣業」であり、決して捨ててはいけないものとされていたそうです。もっとも大切な霊的かつ遺産的価値をもつ資産だからです。

100倍になって受けることができる「家、家族、畑」とは、なんでしょうか。イエス様に従うことによって受ける新しい霊の家族、教会、共同体を指しています。血のつながり以上に、信仰の絆で深く結び合わされている新しい家族関係と居場所を意味しています。

イエス様自身も「神の御心を行う人はだれでも私の兄弟、姉妹、また母なのです」(マルコ3:35)と、新しい霊の家族像について明らかにしておられます。

2)このリストの中に「父」がはいっていません。ユダヤ人社会の家族制度には、父親が絶対的権威と支配力を持ち、父親を中心とした父権制度が強く根付いていました。家族の中で父親の権威は絶対的でした。しかし信仰による新しい家族には絶対的権力者、支配者は必要ありません。  主イエスが教会の頭であり、唯一の導き手であり、守り手であるからです。すべてのメンバーは神の前には平等であり、そこには何一つ、区別も優劣も差別も偏見も存在しません。

3)ひるがえってこの世の中を見れば、偏見と差別が満ち、自分と違うものは排除して切り捨てていく強権社会であり、そこから対立分断分裂が生まれ、争いが起こり、怒りと復讐の連鎖が繰り返されています。しかし、新しい霊の家族、神の家である教会はそうではありません

4)すべてのメンバーが神に愛されている、かけがえのない尊い存在とされ、それゆえ互いに愛し合い、赦し合い、理解し合い、共に食し、共に泣き、共に笑い、共に痛みや重荷をも分け合い、共に生きる社会です。それはやがて来たる神の国の姿を反映しています。まだまだ不完全で、ほんの一部分にすぎないかもしれませんが「神の国の交わり」を「今、ここで経験できる世界」とされているのです。普遍的な公同の教会の真実がここにあります。

5)私たちの教会は1976年5月、小倉キリスト教会として設立されました。信徒もいないわずか11坪の古屋からの開拓でした。1983年にバプテスト教会連合に加入し「宇治バプテスト・キリスト教会」と名称を変更し、翌1984年4月に私が二代目牧師として就任しました。その時以来、教会に「5つの理念」を掲げてきましたが、その一つが「多様性と一致」でした。この理念はその時以来、1mmも動かない、教会形成の基盤となっています。私たちにとって、もっとも大事にしている教会形成の根本理念と位置付けています。

Ⅱ 来るべき世

第二に「やがて来るべき世」(30)においては永遠のいのちを、一人残らずみなが受けることができます。永遠のいのちという祝福から漏れ落ちるキリスト者はひとりもいません。

1) マタイでは「受け継ぐ」(マタイ19:29)という「遺産相続で用いられる」言葉が用いられています。遺産と言うのは親の子どもであれば全員に等しく相続されます。生まれたばかりの赤ちゃんにも相続する権利が与えられています。イエスキリストを信じたその時から、私たちは霊的に新生し、「神の子」としての特権が与えられます。すでに永遠のいのちばかりでなく、神の国の相続財産のすべてをキリストとともに受け継ぐという途方もない祝福に預かっているのです。

「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(1ペテロ1:4)

ヨハネ3:36では、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」、5:24では「すでに死からいのちに移されています」と明記され、この永遠のいのちは、将来のことだけではなく、「今ここで」経験できる豊かないのちとしても語られています。

2)31節で「先の者が後になり後の者が先になり」とあるのは高ぶりを戒める弟子たちへの警告的な教えでもありますが、文脈的にはむしろ、キリストを信じる者がみな「永遠のいのち」という神からの唯一の贈り物である「救い」を受けることを指していると理解できるのではないでしょうか。

Ⅲ 迫害

第三に「これらの祝福を受ける者は迫害を避けられない」ことです。

1)100倍の祝福や来るべき世における永遠のいのちという祝福は、「迫害とともにある」と教えられています。迫害≒殉教と言ういのちの存続にかかわる深刻な事態を想像しなくても、人生には様々な試練や困難な出来事がつきまといます。それは未信者にも信者にも共通して言える苦難です。私たちの歩む人生は山あり谷あり「まさか」という想定外の下り坂を転げ落ちるようなこともあり得ます。その上でさらにキリスト者は、キリストの名のゆえに受けるさまざまな試練や困難、周囲の人々の反対、誤解、非難中傷というきびしい現実にも直面します。主イエスは「あなたがたはこの世では患難がある」(ヨハネ16:33)とはっきり語っておられます。しかしキリストの平安によって勝利するとも約束してくださっています。苦難の中にあってもゆるがない「神の平安」これこそが、信じる者たちの内に働く、恵みの力なのです。

2)「犠牲のないところに祝福もなし」成熟したキリスト教信仰の世界ではこのことばが良く語られます。ボンフェッファ―は「安っぽい恵みに流されてはいけない」とも言いました。

3)普段、あまり語られない真理があります。誤解されてしまう可能性があるためです。キリストに仕えたその奉仕に応じて、それぞれが神の国で受ける豊かな報いについての教えです。永遠のいのちに至る「救い」は神からの唯一の賜り物ですが、「報い」はさまざまに用意されているようです。ちなみに聖書は5つの王冠について記しています。いのちの冠(ヤコブ1:12)、喜びの冠(ピリピ4:1)、朽ちない冠(1コリント9:25)、義の冠(2テモテ4:8)、栄光の冠(1ペテロ5:3-4)。これらの豊かな冠がキリスト者に報いとして、天に用意されています。

そしてこれらの冠は、地上における私たちの働き、隠れた奉仕や隠れた祈り、執り成しの祈りの涙、コップ一杯の水を与えたという小さな愛のわざ、主イエスの名によって捧げられた感謝と献身のしるしとしての献金、その一つひとつを主はご覧になっておられ、観ておられ、決して忘れることなく、覚えておられることの証し、しるしでもあるのです。繰り返しますが、私たちは決して、報いを求めて、見返りを求めて奉仕をしたりささげものをしたりするのではありません。

4)5つの冠のことを昨晩、黙想しながらいつしか寝てしまいましたが、夢うつつの中で、冠を授けてくださるイエス様ご自身はどんな冠をかぶっておられるのだろうかと思いました。王なるお方であるにもかかわらず、イエス様は「いばらの冠」をかぶっておられました。ご自身は私たちのために「いばらの冠をかぶりながら」、私たちに栄光の冠を授けてくださるお方なのです。そのイメージがわいてきたとき、思わず涙がこぼれそうになりました。

5)私たちが天国へ入るとき、「よくやった忠実な僕よ」(ルカ19:17)と、主イエスご自身がねぎらいのことばをかけてくださる、イエス様の笑顔を見ることができる、それで十分なのではないでしょうか。授けていただく5つのどの冠よりも、イエス様の笑顔を見たいから、私たちは自分にできる精いっぱいのご奉仕をささげ、仕えていきたいと心から願うのです。

人が見ていようと見ていまいと、人から評価されようとされまいと、そんなことはほんとうに小さなつまらないことなのですから。