
「そして人の子は、祭司長立や律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。」(マルコ10:33)
いよいよイエス様と弟子たちの一行はエルサレムへと向かいます。過ぎ越しの祭りをエルサレムで過ごし、神殿で礼拝をささげようと大勢の人々がユダヤの町々村々から集いました。さらにローマ帝国内の各地域からも巡礼者たちがぞくぞくとエルサレムを目指して旅をしてきました。
祭りの時には普段6万人が住むエルサレムは、10万人以上に人口が膨れ上がったそうです。喜びと活気にあふれる巡礼者たちにまじって、イエス様が先頭に立ち率いているガリラヤから来た人々の群れもありました。ところが弟子たちの心には不安と恐れの思いが次第に強くなってきていました。なぜならば、イエス様がすでに2度にわたって、エルサレムでの受難と死と復活について予告されていたからです。一度目は8:31、二度目は9:31。そして今、三度目の予告(10:33)を弟子たちにされたのです。
Ⅰ. 3度目の予告
イエス様の3度目の予告は詳細で具体的で新たに「祭司長律法学者たちによって死刑に定められ」「異邦人たちの手に渡され、殺される」と新しい情報が追加され予告されました。マタイ20:19では「十字架につける」と、ユダヤ人社会の「石打の死刑」ではなく「ロマ人による十字架刑」であることが明確に予告されています。なぜ3度にわたってイエス様は予告されたのでしょうか。
1)人は人の話をちゃんと聞かないからです。
2)弟子たちには苦難のメシヤ像が全く理解できなかったからです。
3)十字架の死は、神の深いみ旨、全人類を罪と死から救い出すための必然的なご計画だったからです。
Ⅱ. 弟子たちの無理解
1)そもそも私たちはお互いに、「人の話を最後まで聞かない」という性質をもっています。「もうその話は聞いた」「なんどおなじことを言うのだ」と。でも人間はコンピュータと異なり、まったく同じことを繰り返し話すことは不可能です。イエス様の予告のことばもまったく同じではなく、だんだん詳細になってきています。ですから、話は最後まで聞く必要があります。人の話を聞かないで、自分のかってな思い込みから話し出してしまうと、ミスコミュニケーションが起きてしまいます。創造主なる神は、「口は一つ、耳は2つ」創られました。耳は二つ必要ですが、口は2つも必要がないからです。「聞く、聴く、訊く」の3つの「きく」の相違を理解し、最後まで「聴く」とわかったふりをしないでわからなければ率直に「訊く」ことを大切にしましょう。
2)弟子たちはユダヤ人でしたから、メシヤが異邦人の手で十字架につけられ殺されるとはおよそ考えられない出来事でした。メシヤこそ異邦人の手からユダヤ民族を解放し、国を復興させる偉大な強き王として期待されていたからです。イザヤ書53章で苦難のメシヤについて預言されていますが、それを信じる者はほとんどいなかったと言えます。
3)詩篇36:9に「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見ます」と記されています。神の光に照らされて、はじめて神の真理と真実を見ることが可能となります。肉の知識では、神の真理と真実は理解できないからです。
4)詩 62:11 に「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを」とも記されています。一度目は耳で聞くがそれでは悟れず、ニ度目は神の御霊に導かれて魂で聴く、心の耳で聴くと理解ができるというのです。神のみ旨は、神の御霊のみが伝え、導くことができるからです。
「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」(1コリ2:10)
4)人間には直接自分で「見て聞いて触って」物事を理解する方法と、「信頼して信じて」理解する2つの方法が与えられています。主イエスは復活された時、疑い深いトマスに「傷跡をさわってみなさい」と語り、「信じない者ならないで信じる者になりなさい、あなたは私を見たから信じるのですか。見ないで信じる者は幸いです」(ヨハネ20:25-29)と語られました。私たちは2000年前のカルバリの丘のキリストの十字架の死を直接目撃することはできません。復活された主イエスを直接見ることもできません。しかし、その出来事が事実として記された聖書を通して、聖書を信頼し、聖書を信じて、復活された主イエスキリストと出会い、主と共に生きることができるのです。
Ⅲ. キリストの死は、人類に対する神の救いのご計画
1)弟子たちはイエス様の苦難の予告に対して全く無理解でした。1回目ではペテロがイエス様を諫めました。2回目では恐れと不安のあまり誰も具体的に質問して確かめることもできず、沈黙してしまいました。3回目には「誰が一番偉いのか。大臣の位につかせてください」と頼み込む始末でした。イエス様の御忍耐を想像できます。
2)祭司長らの手に渡し、異邦人らの手に渡しとマルコが記しているように、ユダの裏切りによって祭司長らの手に主イエスは銀貨30枚と引き換えに渡されました。祭司長らは死刑を執行する権限を持つローマ総督ピラトの手に主イエスを渡しました。しかし、誰がイエスを死に引き渡したのかと、問うならば、「父なる神ご自身が、ひとり子を十字架の死に渡された」ことが真実といえます。
3)父なる神ご自身が、「私たちすべてのために、ご自身の御子さえ惜しまずに死に渡された」(ロマ8:32)のです。何のために? 私たちすべての罪人が罪と死と滅びから救い出され、解放され、神の子とされるためにです。ユダヤ人も異邦人もすべての民が、滅びゆく、失われゆく罪人であることにかわりはありません。そんな私たちを愛してくださった神の愛のゆえに、父なる神は御子さえも惜しまず、十字架の死に渡されたのでした。これが真実であり、神のみこころでした。パウロはそれゆえ「どんな被造物もわたしたちの主イエスキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:39)と、神の愛ゆえの贖いの御業であることをそ強調しています。
4)この神の愛を理解していたからこそ、イエス様も十字架の死を前にしながら、なおもエルサレムへとまっすぐに向かわれました。引き返そうと思えばいつでもひきかえすことができたはずです。避けようと思えば避けることもできたはずです。でも、それにもかかわらず、主イエスはエルサレムへとまっすぐ向かわれました。十字架の道を歩まれたのです。
それが神のみ旨であり、神が望まれ、神がご用意された唯一の道であるからでした。
たとえ、一番身近な弟子たちの無理解と言う孤独の中にあっても、です。
権力の座にある神殿勢力やサタンの激しい抵抗に直面しようとも、主イエスは十字架の道を歩まれました。
そして「私たちも、また」先立つ主イエスとともに、私たち一人一人の十字架の道を歩み、神のしもべとして神にお仕えする献身の道を、歩み続けたいものです。
「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マルコ8:34)