
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための、贖いの代価として、ご自分のいのちをあたえるためなのです」
(マルコ10:45))
いよいよイエス様はエルサレムへ入城されます。その前に、これから都エルサレムでイエス様の実に起こること、受難と十字架の死、そして復活されることの3度目の予告をされました。しかし、あいかわらず、弟子たちは理解できませんでした。それどころか、弟子たちの中でナンバー2、ナンバー3に称せられるヤコブとヨハネは、イエス様が王に即位された時には私たちを大臣の位につかせてくださいと願い出る有様でした。「家を捨て・・・従う者には100倍の報いを受ける」(10:30)とのイエス様の約束の言葉をしっかり覚えていました。この二人は、「父を雇い人たちと共に船において従ってきた」(マルコ1:20)弟子でした。彼らの父ゼベダイは漁師を取りまとめる網元のような人物で、手広く商売をし、ヤコブとヨハネはその家業を受け継ぐべき跡取り息子たちとしての恵まれた立場にあったようですので、イエス様のためにすべてを捨てて従った者への100倍の報いへの願望も大きかったと思われます。マタイ19:27ではさらにイエス様が「人の子がその栄光の座に着く時、その新しい世界で私に従ってきたあなた方も12の座に着いて、」イスラエルの12の部族を治めます」という約束もしてくださっていましたから、なおさら期待は膨らむ一方でした。人は自分の都合のいいところだけはよく聞こえ、頭に残るけれど、都合の悪いことは聞こえず、理解できないものです。第一の未熟さをここに見ることができます。
1. 願うことを叶えてください
1) ヤコブとヨハネは「私たちが願うことを叶えていただきたいのです」(35)とついに本音を口にしました。本来ならば「あなたが願われることを教えてください」と言うのが弟子たちであるはずですが・・。主語がいつも「私」になってしまうのが肉の性質の私たちの罪深さですね。神の御心よりも自分の思いを優先してしまう。ここに第二番目の未熟さをみることができます。
2) 彼らは「王位につく時には左右の両大臣になるようにしてください」(37)と懇願しました。後で二人に出し抜かれたことを知った「10人の弟子たちが腹を立て始めた」(41)と記されています。残念ながら、どうやら残りの10人も同じようなことを考えていたようです。イエス様の弟子たちの間に「出世競争」やら「権力願望」やらが、ひそかに蔓延していいたことが浮き彫りに名なってきました。私がもしイエス様であれば、思わず「はあ?」と大いに嘆くでしょうね。3年半何を聞いていたのか、弟子と選び間違えたかなと・・。第三番目の歩未熟さをここに見ることができます。
3)「あなたがたは自分が何を求めているのかわかっていない」(38)、私がやがて受ける苦難を受ける覚悟があるかとイエス様が二人に問いかけると、彼らはよく考えもせず「できます」と反射的に即答しました。これが第四番目の未熟さでした。よく祈りもせず、熟慮もせず、思ったことを相手への気づかいや配慮を忘れて言葉にしてしまう傾向が私たちにも見られます。
3) 実際にはどうだったでしょう。ゲッセマネの園で十字架の死を前にイエス様が徹夜で祈りをされた時、「一緒に祈ってほしい」と主が求められたにもかかわらず、ペテロとヤコブとヨハネは眠り込んでしまいました。イエス様の杯を飲むことができませんでした。そんな弟子たちにもかかわらず、イエス様は「あなたがたはやがて飲むことになるであろう」と、将来、彼らも十字架を負って死に至るまで従っていく生涯をみ通して予告されました。
4)世の人は今の現実と過去を見て判断し評価します。しかし、イエス様はその人の全生涯を見ておられます。過去や現在の状況がなんであれ「将来」を見ておられます。イエス様のまなざしは未来に注がれています。信仰とはイエス様と同じまなざしで将来を見、信じ、期待することではなでしょうか。ヤコブはのちに12弟子たちの中で最初の殉教者(使徒12:2)となり、ヨハネも晩年に迫害を受け、パトモス島に送られ流刑に処せられました(黙1:9)が、それぞれの道を走りぬき、神の栄光を現わす人生をまっとうしました。
2. 父が権威をもってなされる
神の国での人事権は父なる神様の権威のもとにあります。人間の手中にはありません。神が絶対的主権をもって最善をなされます。ですから、神がなされることは神に任せ、私たちは今、私たちがささげることができることにベストを尽くしてまいりましょう。
3. 御国のリーダーの姿
イエス様は神の国での真実なリーダー像について弟子たちを「呼び寄せ」語られました。
1) この世の支配者は横柄にふるまい、この世の偉い人たちは権力をふるっているが、御国のリーダーたちはそうであってはならない。この世の支配者は権力をほしいままにして武力や経済力をもって支配しようとするが、教会のリーダーたちは、彼らをまねてはならないと、全否定しておられます。
2)あなた方の間では、つまり、「教会の中」では、「みなに仕える者になる」(ディアコニア)(43)ことが求められています。先頭の立ちたいとは「第一となる」ということばですが、「偉くなる」(43)よりもさらに強い内容を示すことばだそうです。「しもべ」(44)は「仕える者」(後に執事とも訳されます)よりも「奴隷」(デュ-ロス)と訳すべきことばだそうです。リーダーと呼ばれる人の存在はどのような組織においても必要とされます。そうでなければ烏合の衆の集いとなる可能性が高くなるからです。真のリーダーは、「他の人に仕える」ことができるリーダーです。これを「サーバントリーダーシップ」と呼びます。御国のリーダーに求められるのは「愛と赦しとサーバントリーダーシップ」だと言われています。
3)この世では人の先に立つことと、しもべであることはしばしば両立しえないものですが、キリスト者の世界では両立します。なぜならば「イエス様がそのように生きられた」からです(45)。イエス様は「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た」(45)と言われました。王の王であるお方が、栄光に満ちたお方が、被造物にすぎない人間に仕えるために、人間となってこの地上に来られました。十字架の死の前夜、弟子たちと最後の食事を取られたイエス様は、「弟子たちの足を洗われました」(ヨハネ13:4-5)。それはまさに、奴隷の姿であり、弟子たちへの愛の極みの姿でした。招待された客人の足を土間で身をかがめて洗う仕事は、「仕える者ディアコニア」の仕事ではなく。「奴隷デュ-ロス」の仕事とみなされていました。奴隷の姿そのものとなられたイエス様の実践を見て、弟子たちは驚いたのでした。
4)主イエスは「多くの人のため贖いの代価として自分のいのちを与えられました」(45)。贖いの代価とは戦争捕虜や奴隷を自由にするとき、それまでの所有者に対価として支払われるお金のことです。赦しと救いと解放のために犠牲が必要なことを現わしていることばです。主イエスは人が自分の罪のゆえに支払わなければならに代価をご自分のいのちをもって十字架上で支払ってくださったのです。ここに愛があります。
仕えることの原動力がここにあり、この愛をともに分かち合う喜びが、御国民の奉仕の源泉となっているのです。
「低き立場をとることよりも高い者はなく、高き立場を取ることより低い者はない」(クリソストム)