【福音宣教】 「実を結ばないいちじくの木」


「葉の茂ったイチジクの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうかを見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほか何も見つからなかった。                    イチジクのなる季節ではなかったからである」(マルコ11:13) 

教会の中庭に植えてある葡萄の木に今年も実がなり始めました。秋の収穫が今から楽しみです。果物にはそれぞれ実を結ぶ時季があります。季節外れに実を求めても期待できません。今日の聖書の個所にはまだイチジクの実がならない時季にもかかわらず、イエス様が実を結ばないイチジクの木にダメ出し宣言し、翌日にはイチジクの木が根もとから枯れてしまったという出来事が記されています。なにか不思議な、謎めいた出来事です。

1      エルサレムに入城された翌日の朝

1)イエス様は日曜日の朝、人々が「ホサナ、祝福あれ、主の御名によって来るお方に」(9)と熱狂的に大歓迎する中、子ロバに乗ってついにエルサレムの都に入城されました。神殿を見て回り、夕暮れになったため、3キロほど離れたベタニアのマルタの家に宿泊されたと思われます。翌朝、月曜日に再び一行はエルサレムへ向かいました。途上で日当たりのよい道端に、葉の生い茂ったイチジクの木を見つけたので、空腹を覚えていたイエス様はイチジクの実を探し求めました。しかし、何の実も見いだすことができす、「今後、誰もお前の実を食べることがないように」(14)と、宣言されました。翌朝、イエス様一行が再びそこを通ると、イチジクの木は根もとからすっかり枯れ果ててしまっていたのです。ペテロは思わず「あなたが呪われたイチジクの木が枯れています」(21)と驚き告げました。たとえ相手が樹であったとしても、イエス様が「呪う」というようなことはありませんから、これはペテロの個人的な意見にすぎません。

2)「食べ物のうらみは恐ろしい」と言いますが、イエス様もいくら空腹だったからと言って、季節外れにイチジクの実を求め、実がなかったからといって、枯らしてしまうというのは、やりすぎではないでしょうかと思うかたもきっとおられることでしょう。

3)マルコ福音書にはイエス様のなさった18の奇跡が記されていますが、18番目となる最後の奇跡が、腹が立ったのでイチジクの木を枯らすとは、信じがたいですね。当然ながらそこには深い意味が込められています。

2. いちじくの木はイスラエルの象徴です

1)旧約聖書では、ぶどうの木と並んでイチジクの木はイスラエルを象徴する植物とされています。ですからイエス様が実を探し求めたにもかかわらず、実を結ぶことができなかったイチジクの木は、神のみこころを悟らず、神に背き、メシヤであるイエス様を頑なに拒み、受け入れようとしないイスラエルの民、とりわけ神殿を中心とした宗教的指導者たちを指しています。その上、イチジクの木が一晩のうちにすっかり枯れてしまったことは、イスラエルの滅亡と神殿の崩壊というユダヤ人社会の最大の悲劇が迫っていることを示す預言的な出来事を意味していると理解できます。

2)ルカ19:41には、オリーブ山からエルサレムをご覧になったイエス様が、「激しく泣かれた」ことがすでに記されています。マタイ23:37でも同様に、イエス様がエルサレムの滅亡を深く悲しまれている姿が描かれています。

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」 イエス様のこの言葉は「母鳥の歌」ともいわれています。めんどりがひなを翼の下にかくまい、敵から守るように、何度も招いたにもかかわらず、人々は受け入れなかった。神の愛を拒み続けた結果、都も神殿も民も見捨てられ荒れ果ててしまうと預言されています。事実、この時から40年も経たたないAD70年、エルサレムはついにローマ軍に包囲され陥落し、神殿も完全に破壊され炎に包まれ瓦礫の山となってしまいました。

3. 葉ばかりの神殿を中心としたエルサレム

エルサレムはロマ皇帝の直轄属州とされたユダヤ州の中心都市でした。エルサレムの繁栄は神殿によってもたらされました。ヘロデ大王によってBC20年からおよそ50年の歳月をかけて再建された神殿は、単なる礼拝の場としてだけでなく、ユダヤの国の宗教・政治・経済の中枢機能を果たしていました。人も物も金もエルサレム神殿を中心に集められ、いわばユダヤ社会の中心的金融機関、巨大なメガバンクとなっていたと言われています。ユダヤの全成人は半シケル(銀7g、2日分の給与、約2-3万円)を神殿税として納め、さらに収穫物の1/10または同等の価値をもつ貨幣によって、税を納める義務がありました。祭りともなれば世界中からおびただしい巡礼者が神殿に押し寄せ、犠牲の供え物を奉げるたの便宜をはかる両替商人たちが莫大な利益を上げていました。まさに神の都と呼ばれるエルサレムでしたが、イエス様の目から見れば、「葉っぱばかりが大きく生い茂る」イチジクの木にすぎず、実を何一つ結んでいない空しい存在であり、やがて神の裁きの日を迎え、滅びゆく空しい存在にすぎなかったのです。

4. イエス様は小さな実を求められる

イエス様は季節外れであることを承知の上で、イチジクの実を探されました。というのは、イチジクが4月頃に、小さな芽、小さな実を結ぶことがあることをイエス様は知っておられました。それは小さく固くまずい実ですが食べることができたそうです。イエス様は大きな葉にうずもれ、隠れているかもしれない小さな実を探されたのでした。十分熟していなくても、固く、まずくても、小さな実を求めておられます。

事実、イエス様は取税人や罪人、遊女たちを、みもとに招かれました。彼らはこころを開いてイエス様を救い主、約束されていたメシヤとして受け入れたのです。イエス様が最後に救いに導かれたのはエリコの町に住み、道端で物乞いをしてかろうじていのちをつないでいる盲人バルテマイと町中の人々から嫌われ、軽蔑され、「罪人」とさえ呼ばれていた強欲な取税人ザアカイでした。後世に名を残すような資格がある者たちでは決してありません。しかし、彼らの名は福音書に記され後代にまで語り継がれています。

エリコには神殿に仕える多くの祭司やレビ人たちが住んでいましたが、彼らが救われたという記録はありません。まさに先の者があとになり、後のものが先になる状態でした。イエス様は、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」 (ルカ5:31-32)と語っておられます。

5. ルカ13:6-9には、「3年待っても実を結ばなかったイチジクの木を切り倒してしまえ」と命じた畑の持ち主に、園丁が「もう1年、待ってください」と執り成す有名なたとえ話が記されています。ここには、 「もう1年」という恵みのときを用意してくださる救い主イエスの愛と忍耐が描かれています。一方、イエス様は、3年半にわたる宣教の働きをいよいよ終え、十字架の道を歩もうとされています。神の怒りと裁きの時が迫っているからです。

イチジクの木は、9年目が実を結ぶピークだそうです。尊敬する牧師が、庭に植えたイチジクの木が実を結ばないので、「今年、実がならなかったら切り倒す!」と脅したそうです。するとびっくりしたのかその年に一杯イチジクの実がなり、脅した先生もびっくりしたそうです。「言うてみるもんや!」と笑っておられました。

イエス様の十字架の死は4日後に迫っています。それは終末の裁きの時でもあるのです。イエス様の目にはエルサレムの滅亡がすでに映し出されていました。それゆえ、意を決して十字架の贖いの道を、愛をもって歩まれたのでした。一方には、「もう1年待ってください」と、執り成す愛と忍耐に満ちたイエス様がおられ、もう一方には、近づく神の裁きの日の厳しさを涙と痛みをもって語るイエス様がおられます。

この二つを祈りの中に覚え、私たちは生活することが大切ではないでしょうか。個人的な終末はいつくるのか誰にもわからないからです!!

葉っぱばかりが大きく繁ることを願わず、たとえ小さく、固く、まずく、まだ成熟していなくても、主におささげしましょう。私たちを成熟させてくださるのは、恵みの主ご自身であることを信じ、委ねましょう。