【福音宣教】 「疑わずに信じるならば」


「イエスは弟子たちに言われた。神を信じなさい。まことにあなたがたに言います。この山に向かい、立ち上がって海に入れと言い、

心の中で疑わずに自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります」(マルコ11:22-23) 

イチジクの木とイエス様のまなざし

本日の箇所は、火曜日の出来事です。イエス様が神殿で商売をしていた商人たちを「異邦人の庭」から追い出された、あの事件の翌日のことです。イエス様が再びエルサレムの神殿に向かって登られる途中、日当たりのよい道端に生えていたイチジクの木が、すっかり枯れてしまっているのをペテロが見つけました。

実は、このイチジクの出来事は、やがて起こる「神の都エルサレムの滅亡」や「エルサレム神殿の崩壊」という終末的な出来事を告げる、イエス様の「預言的行動」でした。しかし、これを見たペテロの問いかけ(20節)に対して、イエス様が「神を信じなさい」(22節)と答えられたのは、一見するとどこかちぐはぐな応答のようにも感じられます。

なぜイエス様は、ここで「信仰」について語られたのでしょうか。 それは、イエス様の最大の関心が、イスラエルの滅亡や神殿の崩壊という「神の裁きそのもの」ではなく、「イスラエルの民がどうしたら豊かな実を結ぶことができるか」にあったからです。つまり、イエス様のまなざしは、神の民を審判することではなく、彼らがどのようにして神の国にふさわしい豊かな実を結ぶか、という点に注がれていました

21世紀に生きる教会、そして私たちクリスチャンもまた、終末におけるキリストの再臨や神の審判に対して、目を覚まして備える必要があります。しかし同時に、イエス様によってすでに始まっている「神の国にふさわしい豊かな実」を、日々の歩みの中でどのように結んでいくかにも、心を注がなければなりません。世界に対する終末の預言は、父なる神様が主権をもって導かれる事柄です。一方で、教会とクリスチャンが豊かな実を結ぶことは、私たちのうちに働いてくださる「聖霊なる神様の良き御業」です。そして聖霊は、私たちの「信仰」と「祈り」、そして「赦し」という3つのパイプを通して、豊かな実を結ばせてくださるのです。

第一に、聖霊のお働きは、信仰に命を吹き込むことです。 イエス様は弟子たちに改めて「神を信じなさい」(22節)と命じられました。「神を信じる」とは、「神を完全に信頼する」と言い換えることができます。 世の諺に「イワシの頭も信心から」という言葉があり、何を信じるのも個人の自由ではありますが、だからといって実際にイワシの頭を心から信頼し、人生を委ねる人はいないでしょう。また、「結婚できるなら、相手はゴリラでもチンパンジーでもいい」という人もいないはずです。なぜなら、それらは私たちの人生を委ねるに足りる存在ではないからです。私たちが安心してこの人生を歩み続けることができるのは、ひとえに「神様への絶大な信頼」があるからにほかなりません。

私たちの人生のすべては、「神を信じ、神を信頼すること」という強固な基盤の上に成り立っています。 聖書は、「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」(詩篇14:1)と語ります。しかし、神の民である私たちは、次のみ言葉のように、神を仰ぎ見て、信頼し、賛美するのです。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5) 「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」(詩篇62:8)

第二に、神への揺るぎない信仰は、祈りを強めます。祈りの土台は、神様への信頼です。神への信頼があってこそ、私たちの祈りは真に成り立ちます。 イエス様はこう約束されました。 「この山に向かって『海に入れ』と言い、疑わずに自分の言った通りになると信じる者は、その通りになります」(23節)。

ここで語られている「山が海に移る」という表現は、どんなに大きな困難であっても、あるいは到底解決不可能だと思えるような問題であっても、祈りによって解決され、乗り越えることができるということを象徴しています。 ただし、ここには「疑わないで」という条件がついています。祈りを通して不可能が可能になるのは、私たち人間の力によるものではありません。全知全能なる神様の御力が働き、神様が山を動かしてくださるからです。「神にとって不可能なことは何もありません」(ルカ1:37)と御使いがマリアに告げた言葉は、時代を超えて、神を信頼するすべての人に告げられている真理です。そして聖霊が、神様の御力と私たちの祈りをつないでくださるのです。

興味深いことに、聖書には「疑わずに『祈った』通りになる」ではなく、「疑わずに『自分が言った』通りになる」と記されています。 そのため、ある牧師はこれを「宣言の祈り(プロクラメーション)」と呼んでいます。これは、神様のみ言葉を真理として自らに向かって力強く宣言し、信仰を表明する祈りの形です。単に「こうしてください」と願い求めるだけでなく、神様の約束がすでに実現したことを口に出して告白するのです。

例えば、守りと平安を宣言するときは、このように祈ります。 「神様、あなたは私の避け所であり、力です。私には恐れるものは何もありません。あなたの平安が私の心と生活を完全に満たし、今日の一日を導いてくださることを宣言します。」 また、恐れを手放す宣言をするときは、このように祈ります。 「神は私に、臆する霊ではなく、愛と力と慎みの霊を与えてくださいました。私は不安や恐れを捨て、神の約束にしっかりと立ちます。」 「〇〇してください」という願望の祈りよりも、み言葉にしっかりと根ざして祈る方が、支えられる力強さを実感できるのではないでしょうか。私たちが礼拝で告白する「使徒信条」も、まさにこの信仰宣言の形です。

さらに24節では、「祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい」とも語られています。イエス様の祈りは、常にこのようにシンプルでありながら力強いものでした。だからこそ、長血を患う女性や盲人のバルティマイに対して「あなたの信仰があなたを救った」と語り、ラザロの蘇りを疑うマルタに対しても「もし信じるなら、神の栄光を見るとあなたに言ったではないか」(ヨハネ11:40)と語りかけて、彼女の信仰に命を吹き込まれたのです。かつて、悪霊に取り憑かれた少年の病を癒すことができず、落ち込んでいた弟子たちに、イエス様はこう教えられました。 「信仰が薄いからだ。からし種一粒の信仰があれば、この山に向かって『移れ』と言えば移るのです。あなたがたにできないことはありません」(マタイ17:20)。 ここで「信仰が薄い」と訳されている言葉は、直訳すると「小さな信仰」という意味です。からし種は非常に小さな粒ですが、そこには確かに「命」が宿っています。中身が空っぽではありません。したがって、見かけはどんなに小さな信仰であっても、そこに命が宿っている限り、生きた信仰である限り、それは山を動かすほどの大きな結果を生み出すことができるというのです。

信仰に命が宿っているとは、神様を信頼する信仰が、私たちの内で生き生きと息づいているということです。ですから、このイエス様の言葉は、失敗した弟子たちを責めるための言葉ではなく、彼らをもう一度立ち上がらせるための「励ましの言葉」なのです。 ゴム風船も、そのまま放置しておけばしぼんでしまいます。しかし、そこに新しく息を吹き込めば、再び大きく膨らみます。私たちは日々の生活の中で、ときに信仰がしぼんでしまうことがあるかもしれません。だからこそ、この礼拝を通して、聖霊の新鮮な息吹を私たちの信仰に新しく吹き入れていただき、祈りの力を回復させていただこうではありませんか。

第三に、信仰による祈りは、赦しの実を結びます。最後に、信仰による祈りは「赦しの実」へとつながっていきます。 使徒パウロは、「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しい」(Ⅰコリント13:2)と語りました。私たちの信仰生活は、神様との縦の糸(信仰・祈り)と、隣人への愛という横の糸によって織りなされているものです。

この「隣人への愛」は、私たちの罪がキリストの十字架の贖いによって完全に赦され、神様との和解へと導かれたという「決定的な事実」に基づいています。罪人であったこの私が赦され、神様と和解させていただき、神様のふところに受け入れられて、再び「神の子」と呼んでいただけた。この十字架による赦しと和解こそが、私たちが隣人を愛するための根拠であり、尽きることのない湧き出る泉なのです。

それゆえ、私たちは祈りの中で、キリストの十字架の贖いを日々見つめ、信じ続けることが大切です。私たちの祈りの中心には、常に十字架が立てられていなければなりません。祈りの中に、十字架の愛と赦しが息づいていてこそ、私たちは豊かな実を結ぶことができるのです。     

聖書は告げます。「いつまでも続くのは、信仰と希望と愛、この三つです」(Ⅰコリント13:13)。

神様への絶対的な「信仰(信頼)」、神に不可能なことはないという「希望」、そして十字架の根底にある「愛」。これらに根ざした祈りこそが、

キリストによってもたらされた神の国にふさわしい、豊かな実りなのです。