
「あなたがたは次の聖書のことばを読んだことがないのですか。家を建てる者がたちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」
Ⅰ 葡萄園の譬え話
イエス様は「祭司長、律法学者、長老たち」に対して、葡萄園の悪しき農夫のたとえ話を語られました。広いブドウ園を所有している遠方に住む農園主が、収穫の時期になったので、業務と管理を委託していた管理者クラスの農夫たちから、収穫物を受け取るために、しもべたちを遣わしたところ、農夫たちは最初のしもべを袋叩きに、二番目のしもべの頭部に重傷を負わせ半殺しにし、三番目のしもべをついに殺してしまった。農園主は最終的に跡取り息子を「これなら敬ってくれるだろう」と農夫たちのもとへ遣わしたところ、あろうことかその息子も殺してブドウ園の外に投げ捨ててしまった。これは神の愛を拒み続け、やがて神の御子イエスを十字架にかけるユダヤ教指導者たちの「頑なな」姿の預言でした。
このたとえ話において、ブドウ園はイスラエル、遠方に住む農園主は創造主なる父なる神、殺される跡取り息子は、イエスご自身、ブドウ園の管理を委ねられた管理者たちはユダヤ教の指導者たちのことが語られていることは、明らかでした。ですから彼らは非常に憤慨し、逮捕しようと思ったほどです(12)が、民衆を恐れて手が出せませんでした。
Ⅱ 裁きの前に示された「神の忍耐と愛」
一つ注目していただきたいことは、イエス様はここではブドウ園の所有者が戻って来て、悪しき農夫たちにくだす「裁き」については何も語っておられない点です。イエス様は13章においてエルサレム神殿の崩壊から始まる終末的な神の審判について詳細に語ります。悪しき農夫たちの譬えの本質は「裁き」ではありません。しもべたちが殺されたにもかかわらず、最愛の息子さえも遣わそうとする農園主の姿の中に、罪人をどこまでも赦そうとする父なる神の「とてつもなく大きな愛と忍耐」の強調です。常識外れともいえる「愛と忍耐」が語られていますが、それこそまさに、神がキリストの十字架の死において明らかにしてくださった「神の愛」の深さ、高さ、大きさそのものを現わしています。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ロマ5:8)
Ⅲ 見捨てられた石が「要石」となる逆転
イエス様はさらに詩篇118:22-23を引用されました。人間から「捨てられた石」が建物のもっとも重要な「隅の頭石」(要石・新改訳では礎の石)となると語られました。隅の頭石とは、石造りの建物を建築する際、縦と横の2方向からの力が加わる角隅に用いられる、最も堅い石を指すことばです。玄関前の石造りのアーチや川を跨ぐ石橋を建築する場合にも、最後に打ち込む石を「要石」(かなめいし)と呼ぶそうです。
指導者や民衆から見捨てられ十字架で死なれた主イエスは、三日目に復活し、神のみ国を支える確かな土台(要石)となられたのです。
ユダヤ教の指導者たちから見捨てられた石、エルサレムの住民が「十字架につけろ」「バラバを赦せ」と叫び、ご自分の民からも見捨てられた石、王として期待されたにもかかわらず何の価値もないと見捨てられ、王冠の代わりに茨の冠をかぶせられた主イエス、このお方こそが、やがて来るべき永遠の神の御国、栄光の御国を築きあげる「隅の要石」となられたのです。この逆転の福音こそが、キリスト教の神髄であり、初代教会の弟子たちが命がけで宣教した福音でした。
ペンテコステの日に聖霊が注がれた弟子たちは大胆にキリストの十字架の死と復活を宣教しました。ペテロとヨハネが逮捕され、サンヒドリンの最高法院に引き出され、大祭司、祭司長、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちの面前に立たされ「何の権威によって、誰の名によって説教し、癒しのわざをするのか」と尋問された時、「皆さんもイスラエルのすべての民も知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエスキリストの名によることです。あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石になったというのはこの方のことです。この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下ではこの御名の他に、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4:10-12)と恐れずに証ししました。1ペテロ2:4-6では「主のもとに来なさい。主は人には捨てられましたが、神には選ばれた貴い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ・・聖なる祭司となります。見よ、私はシオンに選ばれた石、貴い要石を据える、この方に信頼するものは決して失望させられない」とも記されています。
Ⅳ 私たちの応答
悪しき農夫たちは農園者が所有する葡萄園を自分のものにしようと悪事を重ねました。私たちにも、自分の人生と言う葡萄園を、神を締め出して「自己所有」しようとする頑なさがないでしょうか。もちろん、私たちの人生は他人のものではありません。他人の所有物では決してありません。他人の意志に動かされることなく、他人の支配下におかれるようなことがあってはなりません。しかしだからといって、私たちの人生を自分が自己所有して良いというものでもありません。私たちのすべては主のものであり、主がそなえてくださったものからです。神はあなたの「他人」ではありません。あなたの創造主であり、あなたの人生の真の所有者です。それゆえ私たちのすべては神の御手の中にあります。このことをどれほど私たちは自覚しているでしょうか。
すべての人間は、神を拒む頑くなな心を捨て、イエスキリストを人生の最も大切な「隅の頭石」あるいは「要石」として受け入れるように招かれています。
世の人からみれば取るに足りない小さな存在であり、無用の存在ともみなされ、見捨てられた価値なき石にすぎないかもしれませんが、十字架と復活の主イエス・キリストこそが私たちの人生と永遠の御国を支える「揺るぎない要石」となられたお方です。そしてこのお方に信頼するものは決して失望させられることはありません。なぜなら、この要石は、人生のいかなる嵐によっても、いかなる重圧にも、いかなる試練によっても、砕け散ることがないからです。
「このお方以外に救いはない」と告白した弟子たちのように、神の御子イエスキリストを信じ、受け入れ、従い、神が喜ばれる豊かな実を、私たちの「人生の葡萄園」において、結ばせていただ きましょう。
世にあるうちも、世を去る時も、知らぬよみにも、裁きの日にも千歳の岩よ、わが身を囲め 新聖歌229番