【福音宣教】 [カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」


「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)

今日の主題はお金と税金の問題です。 世界中の紙幣やコインには、その国の偉大な歴史上の人物や支配者の肖像が描かれています。 イギリスでは全てのコインに刻まれていたエリザベス女王の肖像がチャールズ国王の肖像へ切り替えられました。アメリカの1ドル札には建国の父 初代大統領 ワシントン、 5ドル札にはリンカーンの肖像が描かれています。日本の1万円札には資本主義の父 と呼ばれた渋沢栄一の肖像が描かれています。
イエス様の時代、ユダの国はローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人成人はローマ政府に1 デナリ 銀貨を皇帝税として納めなければなりませんでした。その他に神殿税として銀半シケルと 1/10 献金の義務が課せられていたため、人々の生活は決して楽なものではありませんでした。こんにち私たちも消費税はじめ様々な税金が課せられ苦労しています。

1.    納税問題

エルサレムに入城されたイエス様は神殿で商いをしていた商売人を追放されました。イエス様に対して宗教勢力から様々な言いがかりとも言えるような論争が仕掛けられてきました。ローマ皇帝に税金を納めることは正しいことなのか悪いことなのかと、パリサイ人とヘロデ王朝を支持する親ローマ勢力のヘロデ党が結託して問いかけてきました。すると イエス様は一デナリ銀貨を示させ、そこに誰の肖像と記号が刻まれているかと問いかけました。1デナリ銀貨には、ローマ皇帝ティベリウスの肖像と「神なるアウグストの子、 ティベリウス、カイザル・ アウグスト」 との文字が刻まれていました。裏には皇帝の母親リビアの女神像が刻まれていました。そのような貨幣を使ったり、所有していることは偶像礼拝とパリサイ人たちは考え、神殿の中に持ち込むことを固く禁じていました。 そこでイエス様は彼らに「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と命じたのでした。

イエス様は「税を納めなさい」 という言葉ではなくて「返しなさい」 という言葉を使いました。 この言葉は戻すとか返済をするという意味だそうです。 ユダヤ国民がローマ政府のもとで政治的な安定や平和、ユダヤ教の保護、 地中海貿易を中心とする経済的な繁栄を受けているとするならば、その恩恵という負債を皇帝に税として納めなさい。神によって恵みを受けているのであれば神への感謝の心を持って神殿税と十一の捧げものを神に返しなさい。神のもとに戻しなさいとイエス様は語られたのです。 こうしてイエス様は皇帝税と神殿税という、具体的な納税問題に対して基本的な考え方を示されたのでした。

2.    聖俗二元論を超えて

しばしば クリスチャンの中で聖俗二元論という考え方を見ることができます。キリスト者はもっぱら礼拝や祈りや御言葉に親しみ、この世的な事柄や政治的な問題やお金の問題には関わるべきではないという考え方です。宗教的な事柄とこの世の世界の出来事とを単純に二元論で割り切って、一方を捨ててしまうような考え方です。カイザルか神か! この世の権威と神の権威に対してどのように信仰者として私たちは振舞っていけば良いのでしょうか。
福音がやがて皇帝のお膝元 ローマの都にも宣教され、無数の家の教会が建ちあがったとき、パウロはローマ 13章1節 2節で、「神が立てられたこの世の権威に従いなさい」と教えました。
ところが皇帝による教会への迫害が本格化した時は、使徒ヨハネが神の啓示を受け、黙示録を記しました。黙示録全体を通して世の権力が信仰の領域を侵すような場合には、毅然としてこれに忍耐と愛をもって立ち向かうことを教え、励まし慰めました。神の支配という大きな聖なる枠組みの中で、限定された俗なるものを認めていくという、「二王国論」的な理解が、後にキリスト教の中心的理解となりました。

神学者のカール・バルトは「片手に聖書、片手に新聞を」と言いました。世の権威を認めつつもしっかりウォチすること、見張ること、無関心にならず、注視するという姿勢を保持する必要があります。こうして教会は地の塩・世の光としての役割を果たすのです。「この世の権威への誠実さ」と「神への信仰」を別々に切り離してしまうのではなく、どちらにも誠実に忠実に生きるという具体的な姿勢が求められていることを覚えましょう。

3.    キリストの像に似せて

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」 この言葉をもう少し深掘りしていきましょう。 ローマの一デナリ銀貨には時の支配者、ローマ皇帝の肖像が刻まれていました。では、神のご支配の中で、その恵みの中で生かされている私たちの魂には、誰の形が刻まれているのでしょうか。旧約聖書は、私たち人間は、「神の形に似せて創造された」と教えています。 人間の魂、人間の全存在の根底には神のかたちが刻まれています。 しかし人間は自己中心となり、神から離れ、神を拒み続けた結果、神のもとに戻る道を見失ってしまいました。 失われた存在となったのです。 神との間に深い罪の断絶が生まれ、罪と滅びが人間の究極のゴールとなってしまいました。

そんな人間の罪をご自分の身に引き受けて、主イエスキリストは十字架の上で自らの死をもって罪を贖い、罪を取り除き、赦しを与え、一人一人を神のみもとへと引き戻し、和解へと導いてくださいました。 本来、神のものである私たちを、キリストは再び、神のものに引き戻してくださったのです

「誰でもキリストにあるならば 新しく創られたものです (2コリント5:17)、とすべてのクリスチャンは神のかたちに再創造(新生)されました。コロサイ1:15では「御子は見えない神のかたち」(コロサイ1:15)、と呼ばれ、第二コリン4:4では「神のかたちである キリスト」(第2コリ4:4)とも呼ばれています。

ローマの銀貨に皇帝の肖像が刻まれていたように、私たちの魂の根底には、新しく創造された「キリストの似姿」という最高の肖像が刻まれています。私たちはもはや、自分自身のものではありません。買い取られた神のものです。

パウロは、「あなたがたのからだを神に受け入れられる聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそあなたがたの霊的な礼拝です」(ロマ12:1)と勧めています。私たちは、神に対する「愛の他、何の負債もありません」。お金がある、地位がある、名誉がある、 それらはこの世の、一時的な小さなもの過ぎません。

あなたには神のかたちが刻まれており、聖霊のお働きの中で、キリストの似姿へと新しく再創造されました。 神に愛され、神のものとされた私たちの人生、これこそが最も大切な最高に価値のある良きものではないでしょうか。

カイザルのものはカイザルに返す――。もし、この世の平和や経済の恩恵に対して税を納めることが当然であるならば、神によって命を与えられ、キリストの十字架によって罪から贖われた私たちは、市民としての責任を果たしつつ、何よりも自分と言う存在のすべてを、愛と感謝をもって、神にお返ししていこうではありません。