
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」(マルコ12:27)
1. サドカイ派の問いかけ:地上の延長としての死後観
イエス様のもとにサドカイ派の人々が立ち塞がりました。彼らは、復活や霊魂、天使の存在を一切認めない徹底した現実主義者たちでした。主に神殿の祭司階級や裕福な貴族階級で構成され、ローマ政府と妥協しながら、世俗的な権益や名誉、財産を維持しようとするグループでした。 彼らは「復活などあり得ない」という自らの持論を証明するため、ユダヤ社会の「レビレート婚(義兄弟結婚)」の極端な例を持ち出しました。これは申命記の教えに基づき、長男が子供を持たずに死んだ場合、次男が未亡人と結婚して家系と財産を守るという制度です。彼らは「七人の兄弟が次々と一人の女性を妻に迎えて死んだ場合、復活の時に彼女は一体誰の妻になるのか」と、イエス様に質問を投げかけました。彼らの頭には、「もし死後の世界があるとしても、それは地上の生活の単なる延長線上にすぎない」という狭い認識しかありませんでした。
2. イエス様の回答:神の新しい秩序と、現在形の交わり この的外れな問いに対し、イエス様は二つの真理をもって答えられました。
第一に、天の御国は地上の延長ではないということです。イエス様は「死人の中からよみがえる時には、人は娶ることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようである」(25)と告げられました。永遠の命と栄光の体が与えられる神の御国では、地上の婚姻関係を超えた、神の創造される全く新しい秩序の中に生きるのだと明確に示されたのです。
第二に、神と人との結びつきは死によって断たれないということです。イエス様は、サドカイ派が最も重んじるモーセ五書(出エジプト記3章6節)から「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という御言葉を引用されました。 アブラハムたちの時代から数百年後に語られたこの言葉は、「私はアブラハムの神であった」という過去形ではなく、「私は~の神である」という現在形で記されています。これは、肉体の死を迎えた族長たちが、今もなお神の前に生きており、神との人格的な交わりの中に存在していることを意味します。ここからイエス様は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という、復活の決定的な証拠を導き出されたのです。
3. 現代の死生観と、聖書が語るキリストの復活
「人は死んだらどうなるのか」という問いは、人類普遍のテーマです。現代社会においても、死ねばすべてが消滅するという「唯物論」や、今さえ楽しければいいという「刹那的な快楽主義」が溢れています。また、霊肉二元論、輪廻転生、一般的な先祖崇拝など、死後を巡る考え方は実に多様です。あなたはどのような考えを抱いて歩まれていましたか。そこに確かな平安や確信はありましたか。
しかし聖書は、「死は終わりへのカウントダウン」ではないと教えます。「イスラエルの神を信じる者は、キリストの十字架による罪の赦しを受け、復活によって死に打ち勝つ永遠の命に与る」という、確かな希望を提示します。 これを福音、喜びの知らせと言います。キリストを信じる者は永遠のいのちを持つことができるのです。
4. 復活を信じる恵みと、今を生きる使命 私たちが「復活」を信じるとき、そこには3つの大きな恵みと約束があります。
1.神の大能の力を信じる日常 イエス様を死者の中からよみがえらせた神の生ける力は、未来の復活のためだけのものではありません。今を生きる私たちの信仰生活のただ中にも、祈りを通して豊かに働いています。今日は一人の姉妹の転入会式を迎えました。戦後の大混乱期、焼け野原となった大阪で途方に暮れていた父親が愛娘の心の安らぎのために、教会につれていき、共に讃美歌を歌ったそうです。彼女は成長するにつれて教会から離れ、神の存在さえも忘れて
日常生活に日々追われる生涯を生きていました。ある時、街角から流れる讃美歌の声を聴き、教会を訪れるようになりました。40数年のブランクがあるにもかかわらず、愛娘を思う父親の涙と祈りは神に聞かれたのでした。。これを奇跡と言わず何と言うのでしょうか。神の力ある御業は山を動かすような大きな出来事と言うよりは、日常生活の中に働く恵みの御業の中にも多く隠されています。小さな奇跡を見いだし、感謝し、神をほめたたえることこそがクリスチャンの信仰ではないでしょうか。
2.死を終わりとしない希望 復活の信仰は、「死はすべての終わりではなく、新しい命の始まりである」という絶対的な安心感を私たちに与えます。
3.「生ける者の神」と共に歩む使命 よみがえられたキリストは、今も生きて私たちの日々の人生を共に歩んでくださいます。イエス様はかつて、「まずは父の葬儀に行かせてください」と言い訳をしてイエス様に従うことを躊躇した人に、「死人のことは死人に任せなさい。あなたは私に従ってきなさい」(マタイ8:21-22)と言われました。これは、過去のしがらみや死の恐れにとらわれる生き方から解放され、永遠の命へと人々を導く伝道の働きや「御国の建設」のために、喜びと使命をもって今を生きよという招きでのことばです。
私たちの父なる神、御子イエスキリスト、御霊なる神は、死んだ過去の神ではありません。今をキリストと共に生きることっを願う「生きた者の生ける神」なのです。この人格的な交わりと絆は、死の境界線さえも超えて永遠に続きます。 これを「神の愛」といいます。
「主は今も生きておられる!」 この確かな信仰の告白と、溢れる喜び、感謝を胸に、私たちは今日も、明日も、明後日も、地上のいのちと生活を与えられている限り、歩み続けていこうではありませんか。
「イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変わることはありません。」(へブル13:8)