【福音宣教】 「貧しいやもめのささげもの」

「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手だてのすべてを投げ入れたのですから」(マルコ12:44))                             

時々教会の玄関のポストの中や2階玄関のドアの下に1円や10円が置かれていることがあります。だれかがお賽銭代わりにおいて、「教会の神様」にもお参りしておこうとしているのでしょうか。ダンボール箱に入れられた数匹の子猫が置かれていたり、石膏づくりのマリア像が置かれていたりと不思議なことがあります。

1.
 神によって保護されるべきやもめたち

さて、イエス様がエルサレムの神殿で見た光景や宗教的指導者である、律法学者やパリサイ人、ヘロデ党員やサドカイ派の人々は、神のみこころを悟らず、虚栄や偽善や見栄や自己保身に生きる人々であり、イエス様の心を悲しませるばかりでした。そんな中でイエス様が一人の女性の中に真実な信仰を見る機会がありました。神殿には「女性の庭」と呼ばれている区域があり、そこには礼拝者たちのための献金箱が設置されていました。箱と言っても、雄羊の角でつくられた13個のラッパ型の献金箱でした。大勢の群衆がそこで献金をささげている様子をイエス様はうしろから見ていました。すると一人の女性が、レプタ銅貨2枚を奉げました。彼女は貧しいやもめ、つまり夫を亡くした寡婦でした。

外見だけでだれもそのことはわかりませんが、イエス様だけは彼女の生活事情をよく知っておられました。神は私の後ろを見ておられるお方、すべてを知っておられるおかたです。やもめには2種類あり、夫の財産を相続した裕福な寡婦もいましたが、ほとんどの寡婦は生きるだけで精いっぱいの貧しい境遇に置かれていました。

ですから、旧約聖書では、「聖なる住まいにおられる神は、みなしごの父、やもめの保護者である」(詩篇68:5)と記され、無力な弱い存在として神の保護とユダヤ共同体社会の配慮のもとにおかれていました。新約聖書においても、初代教会では、やもめへの日々の食事の配給が教会の大切な働きとして受け継がれていました。

2. 生活費のすべてをささげたやもめ

彼女がささげたレプタ銅貨は、労働者一日分の給料である1デナリの126分の1.1デナリを1万円とすると80円に相当します。ギリシャの最小銅貨でした。レプタ2枚でしたから100円玉と50円玉を奉げたと考えることができます。わずかな金額の捧げものでした。

イエス様は弟子たちをそばに呼んで、「アーメン、聞きなさい。彼女は他の誰よりも多くを奉げました。持っている生活費のすべてをささげたのですから」と解き明かしました。

なぜイエス様は、弟子たちにこのことを告げたのでしょうか。

1) 文字通り、彼女はすべてをささげたからです。
裕福な人々があり余る中から一部を奉げているのにくらべ、やもめは持ち物のすべてを奉げたと、イエス様は弟子たちに教えました。献金は神様への感謝と献身のしるしです。
周囲の人々の保護や支援を受けなければ生きてゆけない貧しいやもめでしたが、彼女のこころは決して貧しくありませんでした。夫に先立たれるという不幸な経歴、その後の厳しい生活環境にもかかわらず、彼女の心は神への感謝で満ちていたからでしょう。
逆境も経済的な厳しさも、生活の苦労も、彼女の心から神への感謝と信仰を奪い去ることはできませんでした。ここにやもめの真実な「信仰」を見ることができ、イエス様は彼女の内なる信仰をごらんになっておられたのです。

真の信仰と捧げもの(献金)の本質は、「いくら捧げたか(金額の多寡)」ではなく、「いかに心を尽くし、神にすべてを委ねているか(真実さ・感謝)」にあります。
 老婦人がお札にアイロンをかけて白い紙に包んで毎週、礼拝で献金されたと神学校の教授がご自身の経験談を話してくださいました。献金のルーズさは信仰の姿勢の崩れでもある。神に良きものをささげるこの姿勢をルーズにしてはいけないと襟を正されます。

2) 生活費のすべて(44)とありますが、英語訳では「alltheLIFE」。いのちのすべて。手元にあるレプタ2枚、それは彼女のいのち、生活、人生のすべてを意味しています。

それを彼女は神にささげ切った、委ね切った、明け渡したのでした。レプタ2枚があれば、1枚は手元に残しておくほうが安心かもしれません。しかしレプタ2枚に明日の自分自身の生活をかけるよりは、たとえ手持ちがゼロになっても、「やもめを保護したもう」イスラエルの神、彼女の信じる神にすべてをかけたのでした。信仰とは神にすべてをかけるようなものです。悔い改めと明け渡しは、私たちの信仰の原点ではないでしょうか。

3)  後にイエス様の十字架の死を前に、300デナリもするような高価なナルドの香油をすべてイエス様に注いだ女性(マルコ14:3)が登場します。彼女は自分のために香油の一滴すら残すことなく、壺を割って、全てをイエス様に注ぎました。イエス様の十字架の死のために葬りの準備をする、彼女にできる奉仕はそれがすべてでした。香油を残す必要などはまったくなかったのです。1/64デナリにすぎないレプタ2枚をささげたやもめと300デナリもする香油をすべてイエス様に注いだ女性、そこには19200倍の違いがありますが、額ではなくその真実さにおいては共通しています。あり余る中から一部をあるいは残り物をささげたのではなく、余すところなくすべてを、感謝と献身の祈りを込めて、ささげたのでした。

3. 転入会クラスやバプテスマクラスでは教会生活の項目の中で、礼拝・奉仕・献金について学びます。そこでお伝えするのは、私を導いてくださった田辺先生ご夫妻の教えです。
大学生の私に牧師夫人は「神様には収入の1/10を最初に分けてささげましょう。ついで1/10を貯金しなさい。いざというときに人に迷惑をかけないために。残りの8/10で生活しなさい。それで生活できないというなら贅沢や無駄をしているからですよ」と。この言葉を通して信仰的かつ堅実な金銭感覚を身につけさせていただきました。マラキ書3:9-10には、「天の窓をひらきあふれるばかりの祝福を注ぐかどうか試してみよ。」と教えられています。それは宝くじで1億円当たるようなご利益ではありません。厳しい開拓時代の中にあっても二人の子供が大きな病気ひとつせず、ケガもせず、守られたこと。私たちにとって、それは小さな祝福ですが、あり余る祝福、天窓が開かれ続けていた祝福でした。

感謝と献身のしるしとしての「神への尊い捧げもの」である献金に、余すところのない、私たちの真実を込めて、捧げさせていただきましょう。主イエス様はすべてをご覧になっておられ、恵みの天の窓を開くために、執り成してくださっておられるのですから。

罪人のために十字架の上ですべてを与えてくださり、最も豊かな人がもっとも貧しくなってくださったことを、私たちは知っているのですから。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」(第2コリント8:9)