
「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、他の石の上に残ることは決してありません。」(マルコ13:2))
イエス様と弟子たちがエルサレムの神殿を後にされようとするとき、弟子の一人が思わず感嘆の声を上げました。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
当時の神殿は、ヘロデ大王が1万8千人もの労働者と莫大な費用、そして数十年もの歳月を費やして築き上げたものでした。彫刻の施された白い大理石がそびえ立つその荘厳な姿は、自然豊かなガリラヤ出身の弟子たちにとって、ただただ圧倒されるような輝きを放っていたのです。 しかし、主イエスのお言葉は弟子たちの期待を大きく裏切るものでした。 「この大きな建物を見ているのか。石が石の上に残ることもなく、すべて崩されてしまうのである。」
弟子たちは息をのむほどに驚き、言葉を失いました。この13章は、いわゆる「小黙示録」と呼ばれる箇所であり、主イエスが歩まれる十字架の受難と死(14章〜)の序章として位置づけられています。ここで大切なことは、主が単なる不吉な終わりの預言を語っておられるのではないということです。主は、ご自身の十字架・復活・再臨へと至る神の壮大な救いの御計画を示しておられます。そこにあるのは恐怖ではなく、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13:13)という確固たる希望と励ましです。すべての終末の出来事は、キリストの十字架の贖い(あがない)の光の中に置かれているのです。本日はこの御言葉から、終末の時代を生きる私たちが心に留めるべき2つの主の教えを学びましょう。
1. 人間の築いた「建物」を見ているのか、それとも「キリスト」を見ているのか
かつてユダヤ人にとって、神殿は信仰の誇りであり、民族の精神的な拠り所でした。しかし主イエスは、「宮よりも大いなる者がここにいる」(マタイ12:6)と宣言されました。弟子たちは、目の前におられる真の主よりも、異邦人のヘロデが造った外見の華やかさに心を奪われていたのです。 ヨーロッパを旅行すると大寺院や大聖堂の立派さに圧倒されます。イギリスのウェストミンスター聖堂を訪れた時、丁度、聖堂の塔か鐘の音が響きわたりましたので、思わず録音したほどです。多くの観光客が写真をとったり、記念品やグッズを購入しますが、教会に関心をもったり、教会の主であるキリストに思いを寄せる人はほとんどいないとってもよいでしょう。
また、サマリアの女性との対話においても、主はこう教えられました。
「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。……まことの礼拝者たちが、御霊と真理とをもって父を礼拝する時が来ます」(ヨハネ4:21-23)。やがて到来する神の国において、「神の都の中に聖所はなかった。全能者にして主なる神と小羊とがその聖所である」(黙示録21:22)と記されている通り、目に見える壮大な建物それ自体は、永遠の価値を持つものではありません。
主イエスは今、私たちにもこう問いかけておられます。「あなたは形ある建造物や人間のわざを見ているのか。それとも、わたしを見ているのか。」「教会において、人との人間的な繋がりだけを求めているのか。それとも、わたしとの深い霊的な交わりに生きているのか。」 「あなたは何を見ているのか」と。
私たちが目を留めるべきは、人間の手が造った立派な建物や制度ではなく、その真ん中に立っておられる主イエス・キリストご自身です。
2. 恐れの「滅び」ではなく、希望の「産みの苦しみ」
主イエスは、終末の兆しとして、偽キリストの出現、戦争や地震、飢饉が勃発することを予告されました(3-8節)。社会全体が混乱し、人々がパニックに陥るような情勢が起こります。しかし主は、それらを指してこう言われました。「これらは産みの苦しみの始まりである。」(8節)
この苦しみは、すべてが終わっていく絶望的な滅びの苦痛ではありません。それは、「新しい命が誕生するための陣痛(産みの苦しみ)」です。死と終わりを意味する場での苦悩ではなく、新たな命が生まれる直前の、やがて来る歓喜に裏打ちされた一時的な苦痛なのです。 それゆえに、キリスト者はいたずらに惑わされたり、恐れによって動揺したりする必要はありません。
宗教改革者マルティン・ルターは、「たとえ明日世界が滅びると知ろうとも、わたしは今日リンゴの木を植える」と語ったと伝えられています。終末の日を人間が計算・予測しようとすることは、不信のわざに過ぎません。なぜなら、その時は「父の御手の中に隠されている」からです。
私たちが生きるべきは、「終末を知るからこそ、なおのこと日々の歩みを尊ぶ『新しい日常性』」です。終末を知らない日常生活ではありません。私たちはキリストの十字架の死、栄光に満ちた復活、やがて到来するキリストの再臨を知ったうえで、目を覚ましつつ、待ち望みつつ、新しい日常生活を過ごすのです。自分のなすべき仕事に整然と励み(Ⅰテサロニケ4:11)、主を仰ぎ見て落ち着いて歩むことこそ、終末の時代に求められる健全な信仰の姿です。これこそが終末の時代に教会が伝えるメッセージではないでしょうか。
3. 主の再臨を待ち望む私たちの歩み
ルターが「リンゴの苗木を植える」と言ったように、私たちはヘブル人の手紙の記者が勧める言葉に応えようではありませんか。
「ある人たちの習慣にならって、集まることをやめたりしないで、お互いに励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではないか。」(ヘブル10:25)
今日の説教の結論として、主が私たちに求めておられる姿は明確です。
どのような時代にあっても、十字架の贖いに勝るものは存在しません。この主の御手に確かな信頼を置き、希望をもって日々の歩みを一つひとつ重ねてまいりましょう。