
「そのときに、誰かが、ご覧ください。ここにキリストがいるとか、あそこにいるとか言っても、信じてはいけません」(マルコ13:21)
終わりの時代のしるしの一つに、イエス様は「偽キリスト、偽預言者が現れ、人々を特に教会を惑わす」(13:21)ことを挙げています。偽キリストとは、偽りの救い主、自分を救世主と称し、自己を「神」と名乗る者たちを指します。偽預言者とは真実な神の言葉ではなく、時の支配者におもねった政治的な発言や人間中心的なこの世の価値観に偏った発言をする人々を指します。
1. 立つべきところではないところに立つ者
イエス様は「荒らすべき憎む者が立ってはならないところに立っているのを見たら、山に逃げなさい」(14)と、ダニエル書9:27、12:11を引用して警告しました。マルコは「読者はよく理解せよ」(教訓として過去の歴史から学び、理解を深めなさい)というイエス様の言葉を強調しています。立ってはならぬところとは、神殿の聖所を指します。そこは神が臨在される場所であり、神ではない人間が踏み込む領域ではありません。神は神、人は人。この聖域、神と人との境界線を越えてしまうことが不信仰と傲慢さの始まりです。まさに偽キリストや偽預言者の特徴と言えます。
人間にすぎないものが神の立つべきところに立ってはなりません。神に属する領域を侵してはなりません。神と人との揺るがない境界線を自覚し、創造主なる神の前に、自らは土の器にすぎないという謙虚さこそ、信仰の原点といえます。境界線があいまいになるとき、神礼拝ではなく、人間礼拝に誘惑されます。偽キリスト礼拝に陥るのです。神は神であり、人は人にすぎません。
14節の主イエスの言葉は、ダニエルの預言からの引用です。少し歴史的なことを振り返りましょう。BC167年に、シリヤのアンティオコス4世が「自分を現人神」と呼び、支配下にある住民にギリシャのゼウス信仰を強要し、エルサレム神殿をゼウス神殿と呼ばせ、偶像の祭壇を築かせ、豚や忌むべき動物を犠牲の供え物としてささげ、祭司たちの部屋を神殿娼婦たちの部屋にしたという忌まわしい屈辱的事件が起こりました。ダニエルの預言の成就でした。この時、ユダヤの各地で反乱が起き、ユダヤの豪族の一人、マカバイオスはゲリラ戦を展開し多大な犠牲を払いながら、ついに142年、ユダヤはシリヤからの独立を勝ち取りました。こうして、バビロン捕囚以来、ユダヤ人国家ハスモン王朝が樹立しました。しかし、ハスモン王朝はその後権力闘争と内紛に明け暮れ、やがてローマ帝国の支配下に置かれ独立性と尊厳を失ってしまいました。
イエス様の十字架の死後、わずか40年も経たないうちに、ついにユダヤ人とローマ軍の間でユダヤ戦争が勃発します。熱狂的な過激主義者や終末主義者たちが、「あちらこちら」(21)で自分こそがメシヤである、キリストであると名乗り、武装蜂起を叫び、一般民衆を対ローマ戦争へと駆り立て、反乱を指導しました。「エルサレム神殿は永遠不滅」、「決して滅びない」、「神の都エルサレムには神が住むゆえ、エルサレムを守って戦え」と。しかしAD70年に周囲を包囲されたエルサレムはついにローマ軍によって陥落しました。この時、多くのユダヤ民衆はエルサレムに我先にと集結し、戦いました。通常、住民は60万人と言われていたエルサレムに、立てこもって籠城していた人々は虐殺と飢えで死に絶え、犠牲者は110万人、捕虜は8万人とも記録されています。
一方、エルサレムにいた少数のキリスト者たちは、この時、「山に逃れなさい」との主イエスの教えを心に留め、エルサレムを離れ、山岳地方、ヨルダンのペラに逃れ、新しい信仰の共同体を築き、いのちと信仰を守ったと言われています。イエス様の終末論は、人々を熱狂させ、戦争へと突入していく破壊的なものではありませんでした。偽キリストに扇動され、自分たちで神の怒りを引き寄せ、神の国を実現するという傲慢なものではなかったのです。
2 躊躇なく逃れよ
イエス様は、反キリストがもたらす災いに対しては、抵抗するよりは、むしろためらわず逃れよと命じています。安全な場所に一時避難をせよ、退却せよと語りました。
具体的には屋上にいる者は外階段を使って速やかに避難せよ(15)、持ち物を取りに家に入るな、畑にいる者は脱いだ上着を取りに戻るな(16)、そのような時にはためらわず避難に徹しなさいと命じています。冬は雨季のため道がぬかるんで歩きにくくなる(18)、安息日は900m以上歩いてはいけないという律法の縛りがあるから、そうならないよう(マタイ24:20)に祈りなさいとも。耐え難い試練と苦難の期間だとしても、神がその期間を短くしてくださるから、一時避難に徹しなさい、耐え忍びなさい(13)と教えています
イエスが預言したのは、たんなる神殿の破壊や偽キリストの出現だけではなく、神殿を中心とした古いユダヤ教体制、モーセ以来の律法を中心とした古い世界が終わりを迎え、十字架で死なれ復活されたキリストによって、新しい世界が神の手によって到来するという壮大な救いのご計画と世界観をも包含している、人類の歴史を導く救済史ビジョンでした
3. 逃れることも神の導き
使徒8:1-4には、初代教会に対するユダヤ教会からの迫害が始まった時、信徒はシリヤに逃れました。勝手に逃れたのではなく、使徒たちの指示を受け信徒たちは撤退し、使徒たちはそのまま殉教覚悟でエルサエムに踏みとどまりました。シリヤに逃れたキリスト者は新しく首都アンテオケを拠点にして新しい異邦人宣教の道を御霊に導かれて開いてゆきました。すべては神のみ手の中にあります。見えざる御手で神は世界の歴史を導いておられます。
「逃げるな、退くな、戦え」という教えがすべてではありません。私たちの人生においても、戦うことだけがすべてではありません。さりとて逃げることだけがすべてではありません。逃れること、一時避難することも必要ではないでしょうか。柔軟な姿勢が強さとなります。
ましてや熱狂主義や国粋主義の名のもと、盲目的に戦争に突入して行くことなどは「偽キリスト」のなす偽りであり、あざむかれてはなりません。神のみ手の中で、時には勇気をもって引くこと、退くこと、避難することも御霊の知恵といえます。
2011年9月、同時多発テロ事件発生3日後に、ブッシュ政権に武力行使の全権が与えられる決議案が諮られました。米上下両院で唯一の反対票(賛成420票、反対1票)を投じた黒人女性議員バーバラ・リーがいます。信仰とは同調圧力に押し流されず、復讐の連鎖からも退き、自らの信仰と良心に従うことではないでしょうか。すべての営みには神の時があり、神が主権者なのですから。
「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。ころすにときがあり、癒すに時があり、崩すのに時があり、建てるのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦いの時があり、平和の時がある」(伝道の書3:3、6-8)