
「その時、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます」(マルコ13:27)
今日の聖書箇所は、終末のクライマックスである「キリストの再臨」の予告です。ここには次の3つの出来事が語られています。
1. 目に見える確かさ・支配原理の崩壊(24–25節) 2. 偉大な力と栄光によるキリストの再臨(26節) 3. 世界中から選ばれた人々が御使いによって呼び集められること(27節) 私たちはこの御言葉から、終わりの日に対する真の理解と揺るぎない希望を受け取ることができます。
1. 人間が頼りとする目に見える「絶対」の崩壊
古代より人々は、太陽や月、星といった天体を永遠不滅のものとして神格化してきました。しかし、人間が「不滅の絶対者」と崇めるものは、ことごとく崩壊していきます。歴史を振り返れば、ユダヤ人にとって絶対的であったエルサレム神殿もAD70年に破壊されました。さらに遡れば、神と神の言葉に信頼しない不信仰な人々に対するノアの洪水や人間の科学技術建築技術を結集して神の位にまで昇り詰めようとしたバベルの塔の瓦解も同様です。人間が神を忘れ、自身の力や人間の手によって造られた物を絶対化したとき、それらは脆くも崩れ去ります。不同に見えても確かなものはありません。しかし、世のあらゆるものが消え去ろうとも、決して変わらないものがあります。イエス様はこう宣言されました。
「天地は消え去ります。しかし、私の言葉(複数)は決して消え去ることがありません。」(31節)
私たちが真に拠り頼むべきは、崩壊する世界や目に見える秩序ではなく、永遠なる神とその真理の御言葉だけです。 旧約の詩人は「神への信頼」(詩篇46::1-3)を次のように語っています。
「神は我らの避け所、また力。苦しむとき そいこにある強き助け。それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただなかに移るとも。たとえ水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。」
2. 歴史の完成:栄光のキリストの再臨
世の終わりに起きる戦争、地震、飢餓と疫病、偽キリストによる惑わしといった数々の苦難は、滅びではなく「産みの苦しみの始まり」に過ぎません。歴史の本当のクライマックスは、「イエス・キリストの再臨」です。「その日」の到来です(26)。人類の歴史は神の歴史(His Story)と言われています。罪深い人間に対して創造主であり愛にみちた神が救いへと導き、本来の在り方にかいふくし完成してくださる「救済の歴史」と言われます。日本人が生まれながらに自然に抱いている「円環的歴史観」ではなく、創造から終末そして完成に向かう「直線的な歴史」です。
イエスキリストの誕生、十字架と復活、そして聖霊降臨によって始まった神の国(神のご支配)は、「その日」、キリストの再臨によって完全に完成します。キリストの再臨こそ、すべてのキリスト者と教会にとって最大の希望なのです。
復活されたキリストは疑い深いトマスに対して、「見ないで信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)と告げました。信仰はまだ見ていない事実を信じ、確信し、待ち望むことが本質です。そして約束通り、再臨の時には、全人類は神の臨在である雲とともに、偉大な力と栄光を帯びたキリストが来られる姿を直接「見る」ことになります。イスラエルと日本は時差にして7時間、距離にして15000km、直行便のフライトでも約13時間かかります。アジアの西の果ての遠い国です。しかし今や、衛星放送で日本だけでなく、世界中の人々がほぼ同時に見ることができる時代になっています。50年前には想像すらできなかったことではないでしょうか。聖書の約束を信じるだけでなく、その成就を目撃することができるのです。それゆえ、キリストの再臨こそ、すべての信徒と教会にとっての最大の希望となっています。
3. 自力ではなく「集められる」恵みと喜び
再臨の最大の目的は、「御使いを遣わし、選ばれた者たちを四方から呼び集めること」(27節)です。
ここで注目すべきは、私たちが自力で「駆けつける」「馳せ参じる」のではなく、「主によって集められる」という点です。招かれるというよりかき集められるというニュアンスです。 救いは最初から最後まで、神の主権と恵みによるものです。自分の行いではなく、キリストを救い主と信じる信仰によって、私たちは呼び集められます。救いの主導権は「信じる私」にあるのではなく、信仰さえも与えてくださる「キリスト」にあるのです。ついて来なさいと招かれ、日々導かれ、ついには約束の神の御国に集められるのです。
選ばれた者とは、特別な一部の優れたクリスチャンだけを指すのではありません。キリストを信じ、十字架による罪の赦しと復活による永遠のいのちを信じたすべての信徒を指します。自分の信仰の良し悪し、出来不出来など小さなことにこだわっていてはなりません。イエスの十字架の贖いは計り知れないほど大いなるものです。ですから、天に国籍を持ち(ピリピ3:20)、神の家族(エペソ2:19)とされた者たちは、誰一人として漏れることはありません。私たちはどこへ行くのか――場所としては神の国を目指しますが--何よりもまず栄光に満ちたキリストのもとへと集められるのです。なんと幸いなことでしょう。
あなたもその一人として選ばれ、招かれている事実を、心から喜び感謝しましょう。
結論
世のあらゆる確かさが崩れ去る終末において、私たちの希望はどこにあるでしょうか。それは、「永遠なる神」と決して消え去ることのない「神の御言葉」にあります。確実に実現する「キリストの再臨」にあります。
「その日」、主はご自身の選ばれた民を一人残らず呼び集め、神の国を完成させてくださいます。
ですから、終末の「産みの始まりの日々」に、何が起ころうと、私たちは驚き、恐れる必要はありません。主の招きと恵みに信頼し、栄光の主にお会いできる日を、大きな喜びとともに待ち望もうではありませんか。旧約時代の預言者アモスは「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス4:12 )と警告しましたが、新約時代の教会は「主よ、来てください」(黙示22:20)と、「その日」を待ち望むことができる幸いに招かれているのです。アーメン。