
「わたしがあなたがに言っていることは、すべての人ん言っているのです。目を覚ましていなさい」(マルコ13:27)
1. 遅れているキリストの再臨(主イエスの約束の真実性)
「人の子は戸口まで来ている」(29)と主イエスはいわれました。すぐそこまで来ているという事実が、しかも現在形で強調されています。イエス様は十字架の死と復活の後、天に昇り、再びこの世界に来られる「再臨」について、遠い将来のことではなく、み近かに迫っていることとして教えられました。マルコ9:1では、弟子たちが死なないで生きている間に来られるとも教えています。パウロ自身も自分が生きている間にイエスの再臨はあると確信していました(1テサロニケ4:15-17)。初代教会の挨拶の言葉は「マラナタ(主よ来てください)」だったそうです。
しかし、すでに2000年の時が経過しました。そしてまだ主の再臨はきていません。では、イエス様が間違えたのでしょうか。いいえ、そうではありません。「たとえ天地が消し去っても、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(31)と、イエス様のことばは真理であり、真実であり、決してゆらぐことがありません。イエスの教えに従い、主イエスキリストの再臨が近いと「信じて生きていく」それで十分ではないでしょうか。カトリック教会の修道士たちの挨拶の言葉は「モメント・モリ」、ラテン語で「死を忘れるなかれ」だそうです。死というものをいつも意識しながら今を生きる、その緊張感に中にいのちが輝くからです。いのちの尊さが実感できるからです。そして、初代教会の挨拶は「マラナタ」(主よ来てください)でした。主の再臨を、主の約束に従って、待ち望んで今日を生きる、それが私たちの生きた信仰を生み出す源泉となるのではないでしょうか。再臨信仰とはそのような信仰を意味すると私は思います。
2. 御子さえも知らない (日時を詮索しないで、神の領域は神にゆだねる)
キリストが再臨されるその日、その時は御使いたちにも知らされていません。御子イエス様も知りません(32)。ただ父なる神様の深い御心の中に隠されています。ですから、御子さえも知らないことをあれこれ知ろうとする必要はありません。いたずらに日時を詮索することは、自分を御子以上の存在とする高ぶりの罪と言えます。
数年前の出来事です。教会に「神から啓示を受けて大地震が起き、再臨の日時が示されたので、気を付けて目を覚まして備えてください」との内容の手紙がある教会から届きました。何事もなくその後に、「申し訳ありませんでした」とお詫びの手紙が届きました。深い神のみこころのすべてを私たちは知り尽くすことはできません。わからないことはわからない。神様のみ旨に隠されていることは、私たちもそのまま受け入れることが、私たちの神信仰ではないでしょうか。伝道の書3:11に「神のなさることはすべて時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を与えられた。しかし、人は神が行う御業のはじまりから終わりまで見極めることはできない」と教えられています。見極める必要はありません。必要なのは神の約束を信じて待ち望む信仰です。
3. 中間時代をどう生きるか
御子が人となってこの世界に来られた時、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14)とイエス様は宣言されました。イエス様の十字架の死と復活によって、神は死の力を打ち破り、サタンを無力化し、神のご支配は決定的となりました。神の国はすでに到来しましたが、いまだ実現には至っていません。「すでに」と「未だ」の間の「中間時代」に教会は生きています。この中間時代をどう生きるかが現代の教会に問われているのです。3つ中間時代に生きる教会とクリスチャンの求められていることがあります。
1) 第一は目を覚ましていることです。「目を覚ましていなさい」との警告は3回も使われています。
主人が旅に出てしもべたちにそれぞれの仕事と責任を与えられたという例え話をイエス様は35-36節で語っています。特に「門番」たちには、主人がいつ帰ってくるかわからないので、目を覚まして、いつでも「門を開いて主人を迎えることができるように」と、重要な役目が与えられています。時が3時間ずつ4区分されていますので、4交代制が取られていたのかもしれません。それほど、眠りこけてはならないことが強調されています。神の裁きを恐れるからではありません。黙示録3章には、「戸口に立っているキリスト」を迎え入れる招きが描かれています。「扉を開けたならば、キリストとともに食卓を囲む恵みがそこには約束されているからです。主人が帰ってきたときには、大きな喜びが用意されているからです。門番がその祝福の扉を開く、栄光に最初に預かることができるからです。
2) 第二は「福音が全民族に十分に伝えられるため」です。
10節には「全民族つまり異邦人世界にも、あますところなく福音が伝えられる」重要性が教えられています。キリストを信じて救われる異邦人の数が満ちるまで(ロマ11:25)、神が一人も滅び去ることがないようにと御忍耐しておられる(2ペテロ3:9)からと、使徒たちは理解していました。だからこそ、聖霊の御力に満たされ使徒たちは福音を力の限り、宣べ伝えたのでした。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
3) 第三は 「落ち着いた日常生活を過ごす」ためです。
再臨はない、あるいはまだ再臨は来ないなどと勝手に思い込んだり、自己判断してはなりません。この世のことがらにすっかり心奪われ、再臨のことなど忘れ果ててしまってはなりません。また反対に、再臨の時をあれこれ詮索し、短絡的な熱狂主義に陥ってしまってはなりません。眠りこけている人は目を覚まさなければなりません。反対に覚醒しすぎて「目が血走って」しまっている人は、落ち着いた穏やかな日常生活を、責任をもって過ごさなければなりません。旅に出る主人はしもべたちに「それぞれの仕事と役割と責任」(33)を与えられました。眠りこけても覚醒しすぎてもなりません。ルターの言葉のように、「もし明日、世の終わりが来ようと、私はリンゴの苗木を植える」という、落ち着いた生活を心がけましょう、神様から託された自分の仕事や役割に対して責任を果たし、神の国のために、自分にできる奉仕を捧げてまいりましょう。キリストの再臨の時期は神のみぞ知るものであり、人間が日時を予測・詮索する必要はありません。私たちに求められているのは、不確かな日時に惑わされることなく、神から任された日々の責任と仕事を誠実に果たしながら、落ち着いた心で、「目を覚まして」主の再臨を待ち望むことです。
パウロのロマ13:11-12のことばを祈りをもって聞きましょう。
「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」