
「彼女は自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました」(マルコ14:8)
今日から14章に入ります。1-2節で、ユダヤ教の指導者祭司長や律法学者たちはイエス様への憎しみからひそかに暗殺計画を練り始めました。一方10-11節では弟子の一人であるイスカリオテのユダがイエス様を裏切り敵の手に売り渡そうとします。憎悪と裏切りと言うような人間の罪深い暗闇の只中に、高価なナルドの香油をイエス様に注いだ一人の女性の真実な献身と言う光が差し込んでいる対比をマルコは描いています。
1. ベタニヤのツァラット(重い皮膚病)の家にて
イエス様がエルサレムのカルバリの丘と呼ばれる死刑上で、十字架の死を遂げられる二日前のことです。人生の最後の時を迎えようとしているイエス様は、ベタニヤに住む「重い皮膚病(ハンセン氏病)の人シモン」の家で共に食事をしておられます。ハンセン氏病はかつてらい病と呼ばれていました。当時、どのような社会的・宗教的差別を受け、偏見の対象となっていたかを知れば、イエス様のなさることに驚きを禁じえません。 もちろん、シモンがすでにイエス様によって癒しと救いを受けて、感謝の宴を用意したとも考えられます。さらにその食事の席に、一人の女性が意を決して入ってきました。通常、女性が宴会の席に入ってくることは考えられないことでした。この女性はヨハネ12:3によれば、「マルタの妹マリア」とされています。 となるとシモンはマルタ・マリア・ラザロの父であるとの推測も生まれてきます。父親の病が癒され、弟ラザロは墓の中からよみがえらされた最も大きな神の御業を経験した家族ということになります。興味深いですね。
2. 高価なナルドの香油
彼女は300デナリもする高価なナルドの香油を持参してイエス様のみもとに来ました。当時、労働者の日当が1デナリと言われていましたから、300デナリはほぼ年間所得に相当します。ナルドの香油は遠い インドのヒマラヤ山脈のふもとに生える植物の根から抽出される香油だそうです。若い女性にとっては「母親から譲り受けた嫁入り道具の一つ」とも言われ、大切に保存されていたそうです。
この女性は香油が入ったちいさな石膏の壺(マタイ26:7)を割って、イエス様の頭にすべて香油を注ぎました。イエス様の「身元にきて」「注いだ」は不定過去形ですから、強い決心や決断や思い切ってと言う ニュアンスを示しています。一体どんな思いで彼女はこのような行為におよんだのでしょうか。
弟子たちは彼女のしたことが理解できませんでした。理解できないにもかかわらず、すぐさま、非難を浴びせました。「高く売って貧しい人々に施しをすべきだ」というもっともな説ですが、たいへん冷たい言葉で した。浪費だ、無駄使いだと言って彼女を責めました。もっとも、過ぎ越しの祭りの期間は、貧しい人々に施しをする良い機会と考えられていたので、弟子たちが間違っていたとは言えませんが、正論は必ずし も良いとは限りません。理想と現実との間にはギャップが常に存在するからです。弟子の指摘に彼女は返す言葉が見つからず「戸惑って」いました。
ところがイエス様は、戸惑っている女性に対して「そのままにさせておきなさい」「彼女はわたしのために葬りの用意をしてくれたのである」(12)と語り、彼女を弁護しました。実際、この女性がそう思ったのかど うかわかりませんが、少なくともイエス様はそのように受けとめてくださったのです。当時ユダヤでは死んだ人の遺体に香油を塗って墓に葬ることが慣習になっていたそうです。ですから、イエスは、この女性は 香油を塗って埋葬の葬りをしてくれたのだと受けとめてくださったのです。
事実、2日後にはイエス様はカルバリの丘で十字架の死を遂げられます。何度もイエス様はご自身の十字架の死を予告しておられましたが、弟子たちは無頓着でした。この女性がヨハネ福音書が記したように 、「ベタニヤのマリヤ」だとしたら、彼女はいつもイエス様の足元に座って、イエス様のことばに耳を傾けていたことを私たちは知っています。イエス様のみ旨を完全にとは言わないまでも、良く理解していた可能 性は高いと考えられます。マリヤは、イエスの贖いの死が近づいていることを感じ、自分ができる何かをしなければならないと、強く感じ、こころを動かされていたのではないでしょうか
さらに、もう一つの可能性も考えられます。イエス様はかつて、マリヤの大切な弟を死の世界からよみがえらせて、家族のもとにかえしてくださいました。墓に埋葬された者を死者の中からよみがえらせる、そん なことができるのは、約束されていた救い主、メシヤ以外に不可能だ。メシヤとは「油注がれた者」と言う意味を持っており、イエス様こそまさに油注がれたメシヤ、神の御国の真の王と確信していた。だからこ そ、イエス様の頭に高価な香油を注いで、王に対する心からの献身と信仰の告白をしたとも考えられています。いずれにしろ、事実は、マリヤに聞かなければわかりませんが、マリヤが注いだ香油は決して無 駄使いや浪費などではありませんでした。
3. この人の記念として伝えられる
イエス様は、「この女性は「自分のできる限りのことをしたのだ」(8)と、彼女を弁護しました。 信仰から生まれる一人一人の行為に時々、批判の目が向けられることがあります。未信者からも、ときには信仰 の仲間からも。そこまでするのは、やりすぎだ、狂信的だ、常識はずれだなどと非難され責められることもあります。でもイエス様は彼女の心の思いを知っておられ、喜んで受け入れてくださっています。
イエス様への献身と奉仕、それはイエス様の十字架の愛の広さ高さ、罪の赦しの深さ、復活の希望の大きさ、甦られたイエス様が聖霊とともに心のうちに住み、人生の同伴者となって歩んでくださるという、、福 音の恵みを知ったとき、内側から湧き上がる自然な思いであり、行動なのです。キリストの愛に圧倒された者は、キリストへの愛を止めることはできません。愛には恐れがないのです。多く与えられたものは多く 与えることができるのです。神への愛にリミットを人間的に設けることはできません。
ですからイエス様は「福音が語られるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(9)と祝福されました。イエスに対する献身こそ、何ものにもまさる美しい行為なのです。記念として語ら れるとは、福音を聞く人々にとって祝福された「記憶」としていつまでもとどまることを意味します。
マルコはあえてマリヤの名前を伏せました。個人崇拝されることさけるためです。しかし、1世紀に書かれたヨハネ福音書では、彼女の名前は「ベタニヤのマリア」と明記されました。この事実がすでに人々に伝 えられていたからと考えられます。ナルドの香油の香りは「部屋に満ちた」とありますが、部屋どころか、世界中に、福音とともに彼女の信仰と愛の奉仕は語り継がれてきましたし、これからも語り継がれていく ことでしょう。イエスが歩まれる受難の道、十字架の道、ドロローサの道にもほのかに香ったことでしょう。主イエスへの献身と信仰告白を意味するナルドの香油の香りは、十字架の福音にもっともふさわしい香 りではないでしょうか。後世の人々が福音を聞くたびに思い起こす、美しい信仰と献身の模範として、今も永遠に記念され、記憶されていくことでしょう。