【福音宣教】 「最後の晩餐の準備」

「弟子たちが出かけて行って都に入られると、イエスが彼らにいわれたとおりであった。それで彼らは過越し用意をした。」(マルコ14:16)                             

レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な壁画『最後の晩餐』のテーブルの上に、どんな料理が並べられているかご存じでしょうか。一説によると、当時のイタリアで親しまれていたふっくらとした丸いパン、赤ワイン、魚料理(ウナギとも言われます)、オレンジやレモンなどの柑橘類、そして手洗い用の水とナイフが描かれているそうです。では、実際の歴史において、イエス様と弟子たちが最後の夜に囲んだ食卓にはどのような料理が用意されていたのでしょうか。

1. 過越しの祭りとその料理(12)

「過越しの祭り」はユダヤ教の三大祭りの一つで、かつてイスラエルの民がモーセに導かれ、エジプトの奴隷状態から救出されたことを記念する行事です。当時はエルサレムから24km以内に住む成人男性に対して参列が義務付けられており、国内だけではなく、世界中から数十万もの巡礼者がエルサレムに集まりました。「過越し」という名は、頑ななエジプト王に下された最後の災いに由来します。神の使いがエジプト中の初子を撃った際、小羊の血を門と戸に塗ったイスラエルの家だけは、死の使いが「過ぎ去った(通り過ぎた)」のです。

したがって、「過ぎ越しの食事」(12)のメインは魚ではなく、丸焼きにした屠られた仔羊の肉でした。普段であれば神殿の祭壇で子羊が屠られますが、祭りの時には、市内の各地区に祭壇が築かれ、祭司たちが派遣され、小羊が屠られ、血は祭壇に注がれ、内臓と脂肪は神への香ばしいささげものとして祭壇の上で焼き尽くされ、礼拝者たちは小羊の肉だけを家庭に持ち帰り、家族親族で食べつくしてしまうという習慣がありました。資料によれば25万6千頭の小羊が屠られたそうです。過越しの食事の内容は以下のようなものだと紹介されています小羊の丸焼きの肉、無種パン(酵母を入れないパン)、エジプト脱出の急ぎ旅を思い起こすための堅いパン。苦菜や果物のペーストは、奴隷時代の苦難を忘れないためのものでした。そして。4杯のぶどう酒を、神の救いの約束を記念し感謝しつつ、賛美と祈りの間に飲まれました。

ダ・ヴィンチの絵画とは異なり、この食卓は単なる食事ではなく、「神の圧倒的な救い」を思い起こす記念の席であり、宴会と言うよりは礼拝に近いものでした。

2. 「イエスが言われた通りであった」(16) —神の必然性と完全な備え

この過ぎ越しの食事を準備するため、イエス様は滞在先のベタニヤからエルサレム市内へ二人の弟子(ルカによる福音書によるとペテロとヨハネ)を先に遣わしました。イエス様一行は夕方になってから(17)エルサレム市内に入りました。なぜならすでにイエス様の暗殺計画が練られており、緊迫した状況下にあったため、危険を避けたのでした。

イエス様から先遣隊の二人への指示は、「水がめを運んでいる男に出会うので、その人について行きなさい」という、あいまいな命令でしたから、きっと彼らは不安を覚えたことでしょう。当時、水汲みは女性の仕事でしたから、男性が水がめを持っていれば確かに目立ちます。しかし目立つとはいえ、過越の祭りでごった返し、大混雑となっているエルサレム市内で、そのような、人物にピンポイントで果たして出会えるでしょうか。例えるなら、大混雑する京都駅で「宇治の茶団子のお土産を持っている人を探し出しなさい」と言われるようなものです。

人間的な感覚で見れば「出会えるはずがない」と感じ、もし出会えたとしても「たまたま運が良かっただけ」と思ったことでしょう。結果はどうだったでしょうか。弟子たちが出て行って市街に入ると、イエスが言われたとおりになっていて、過越しの食事の準備がすでにされていました(16)。すべてはイエス様のお言葉通りでした。 案内先の家では、もうすでに「二階の大きな広間」が整えられて食事の用意がされていたのです。

ここには「神の必然性」と「完全な備え」が示されています。 人間の側からは「偶然」「たまたま」「運が良かった」と見える出来事も、神の側から見ればすべてはご計画通りの「必然」であり、天の御配慮です。教会ではこれを「神の見えざる手」そして「摂理」と言います。イエス様がエルサレムに入城される際、子ロバがすでに用意されていたように、キリストのお言葉に従って歩むとき、すべての必要はすでに神によって満たされています。信仰の世界は、人間的な計算や計画だけで進むものではありません。十字架で死に、甦り、神の右の座に着かれたキリストこそが、万物を支配される御国の王であり唯一の主権者だからです。 

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その歩みを確かなものにするのは主である。(箴言16:9)

3. 「わたしの客間はどこか」 —— 永遠のいのちへの招き

イエス様はこれまで、幾度となく人々に「招かれて」食事の席に出向かれました。取税人の家でも、敵対するパリサイ人の家でも、また直前にはツァラアト(皮膚病)にかかっていたシモンの家でも、拒むことなく足を運ばれました。あまり気軽に食事の席に出かけるので「食いしん坊の大酒飲み」(マタイ11:19)とさえ悪口を言われました。 ところが今回は、イエス様はこう言われました。弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をする、「わたしの客間はどこか。」(マルコ 14:14)と。 ここではイエス様は、招かれる側ではなく「招く側の主人」として立っておられます。弟子たちは客として、イエス様の食卓に招かれているのです。

この「最後の晩餐」は、やがて教会で執り行われる「聖餐式」の型となりました。聖餐式は「主の食卓」とも呼ばれます。聖餐式で差し出されるのは、洗練された高級料理ではありません。私たちのために裂かれたイエスの体を示す「パン」と、流された血を示す「ぶどう酒」です。私たちはこれらをいただくとき、キリストの十字架による罪の赦しと、復活のいのちに与かります。

世の中にはミシュランの星を獲得するような素晴らしいレストランがあります。世界レベルの最高の料理が出されます。しかし、イエス様が主人となって、招いてくださる「パンとぶどう酒の食卓」は、単に身体を満たすものではなく、私たちの渇けるたましいを満たし、傷ついた心を癒し、私たちを永遠のいのちへと導く特上の食卓なのです。

最後の晩餐の備えを通して、聖書は私たちに二つの確かな真理を告げています。

第一に、私たちの人生のすべては主の御手の中にあり、必要な備えはすでになされているということです。先の見えない状況や、人間的な計算では立ち行かない場面であっても、主の言葉に従って歩み出すとき、神の摂理によって、出会うべき人に出会い、必要な道が開かれ、十分な備えが用意されていることを知るのです。そして、どんなことが人生に起ころうとも、すべての事には神の隠された意味があり、困難や試練と思われることの中に超す、むしろそうでなければ学べなかった、得ることができなかった特上の恵みを知ることができるのです。「まばたきの詩人」とよばれた、水野源三さんは「もし私が苦しまなかったら、神様の恵みはわからなかった」と歌いました。

第二に、イエス様は今も私たちを「ご自身の食卓」へと招いておられるということです。主はご自分の命を捧げてまで、私たちが罪の赦しを受け、永遠のいのちを得ることを望んでおられます。キリストの言葉に従って歩むとき、人生には神の完全な備えと、永遠のいのちへの恵みが満ち溢れるのです。

「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ 6:40)

自分の計画や不安にしがみつくのをやめ、すべてを統べ治め、すべてを導かれる主の招きに応えましょう。このお方の言葉に従って歩むとき、すべては備えられるのです。このお方は十字架で死なれ、よみがえられ、神の右の座に着座された、「まことの御国の王」、主権者なるお方だからです。