
「12人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している人が者です」(マルコ14:20)
今日の聖書の個所にはイスカリオテのユダの裏切りの出来事が記されています。
日本史を動かした代表的な裏切り行為として、明智光秀が織田信長を打ち取った本能寺の変、小早川秋次が徳川家康に寝返った関ケ原の戦いなどが有名です。その動機は今もはっきりしているわけではありません。
イエス様の12弟子の一人であったイスカリオテのユダはなぜユダを裏切ったのでしょうか。聖書はユダの裏切りの事実とその末路について伝えていますが、その明確な理由については沈黙しています。人間の行動には、単純な理由と言うのはほとんどなく、常に複雑で、重層的で、時間をかけながら膨れ上がった思いや思い込みがちょっとしたきっかけで破裂すると言われています。しかし、私たちは、ユダの姿とユダの裏切りをも知りつつ、なおも赦しと悔い改めに導こうとされた、イエスのみこころからさらに豊かで深い学びを得ることができます。
1. ユダの裏切りの背景
多くの注解者たちは、彼がイエス様の伝道グループの会計係をしており、お金をごまかしていたため(ヨハネ12:6)、お金の誘惑に負けたのではと推測します。かつて収税人であったマタイを差しおいて会計を任されていたユダにはそれなりの才覚があったことでしょう。しばしば人の「強み」が「弱さ」になり「優れた能力」が「隠れた落とし穴」になることがあります。イエス様は弟子たちに対して「富」に対して警告されました(マタイ6:19-24)。富の豊かさからイエス様を信じる道へと踏み出せなかった若者もいました。パウロは若い伝道者テモテに警告しています(1テモテ6:10)。
イスカリオテと言うのはイスラエルの南部地域を指すので、他の弟子たちが北部ガリラヤ出身だったため、そりが合わず、いつしか孤立感を抱いていた。その心の隙間にサタンが入り込み裏切りへといざなった(ルカ22:3)とも言われています。集団の中で自分の居場所が見つからないと、いつしか心が徐々に離れていくというケースはどの社会にもあり得ることです。
これらの推論以上に説得力のある理由は、メシヤ観の違い、つまりイエスに対する期待のズレをあげることができます。人々やユダが求めていたメシヤとは、ローマ帝国の支配と抑圧から解放し、独立に導き、イスラエル国家を建設してくれる政治的・現実的なリーダーでした。しかし、イエスが来られた目的は、地上の王国ではなく、神の国を建て上げるためでした。
全人類を支配している「罪と死」から解放し、救い出し、神の国に導くためでした。そのため彼は「十字架の贖いの死」の道を歩まれたのです。最後の食事の際、マリアが高価なナルドの香油を惜しみなくイエス様に注いだ時、ユダは現実的感覚から「なぜこんな無駄使いをするのか」とマリアをとがめました。するとイエス様は「彼女は私のために葬りの準備をしてくれたのだ」(マルコ14:8)とマリアの行為を弁護しました。この時、ユダはイエス様が本当に死に向かって歩んでいることを皮肉なことに悟ります。そして彼の期待は失望に変わりました。自分が思い描いていたキリストではないという失望感と裏切られた感覚に、サタンがつけいったといえるのではないでしょうか。
2. ユダへのイエスの愛
さてイエス様はユダの裏切りをすでに知っておられながら、あえてその名を口にしませんでした。追い詰めることをしませんでした。「私と一緒に鉢に手を浸したもの」(14:20)とあります。この鉢はパンや肉を浸すスープを入れた器を指します。ちょうどこの時、スープにパンを浸そうと手を伸ばした弟子がいれば、「違うよ」と思わず手をひっこめたことでしょう。この言葉は「一緒に食事をしている仲間」と言う婉曲な意味です。「私ではないでしょうね」とユダヤが思わず口にした時にも、「そうだ、お前だ」と言わずに「あなたはそう言っている」(マタイ26:25)とイエスは婉曲に伝えています。聖書学者のバークレーは「イエスは名を明かされなかった。そうすればユダはその晩、生きては外に出られなかったであろう。ユダを去らせるよりはむしろ殺してしまったであろう」とドキッとする解釈を語っています。ペテロなどはイエスを逮捕に来た大祭司のしもべの耳を、剣を抜いて切り落としたほどですからあり得ない話ではないと思います。
なぜわかっていながらイエス様はユダの名を明かさなかったのか。それはユダを守り、悔い改めて立ち返ることをイエス様が心から願っていたからでした。幾度となくイエス様は機会を与えておられるのです。「裏切る者は生まれなかったほうが良かった」(14:21)という言葉は、一見、呪いの言葉のように聞こえますが、「災いだ」と言う言葉は、これから起こる恐ろしい事態を辿るユダを思う、イエスの深い嘆きと悲しみの吐露だと言われています。ユダの末路を知っているイエスだからこそ、いまならまだ止めることができる、引き返すことができる、そんなイエスの思いが込められています。実際、ユダが敵を引き連れてやってきたときにも、イエスは「友よ」(マタイ26:50)と最後まで呼びかけています。イエスの愛には限界がなく、これで終わりだと見捨てることはありません。ヨハネは13章で「世にいるご自分のものを愛されたイエスは、最後まで愛された」とあり、ユダも含めた弟子たち全員の足を自らしもべとなって洗われたのでした。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)。 これがイエスのこころです。ユダの悲劇は、メシヤの真実な姿を理解できなかったばかりか、キリストの愛を、イエスの愛を受けとめることができなかったことにありました。
3. 分岐点
ナルドの香油をイエス様に注いだマリヤのことが後世まで伝えられると同時に、イエスを裏切ったユダのことも歴史に刻まれました。ユダの失敗は期待の挫折でした。
わたしたちも神様に対して多くの期待を描きます。しかし私たちが思い描いていた神への期待が徐々にしぼんでいく経験をします。多くはご利益や病気の癒しやこの世での成功をかなえてくれることを願っているからです。だからうまくいかないとこんなはずじゃなかったのにと不信仰が芽生えてくる。ここが信仰の分岐点、分水嶺、わかれ道です。願い通りにいかなくても、神は私の召し使いじゃない。私が神様を動かすのではない、神様が私を導いておられるのだ、私が神様を自分の手のひらの中において命じるのではない、神の永遠の愛の御腕の中に、全能者の御手の中に私が包まれているのだと思考を転換する、この信仰のターニングポイントを経験する時に、聖書の語る「真の信仰」へ目覚めるのです。
申33:27「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。」
信仰生活、教会生活、そして社会生活において、自分が思い描いた通りにならなくても、裏切られたと感じた時こそ、イエス様の無限の愛の御腕の中に飛びこみ、立ち帰るものでありたいと願います。 主イエスは弟子たちの裏切り、おそれ、イエスなど知らないという否認、すべての弟子たちの弱さや罪をことごとく背負って、十字架の道を進まれたお方なのですから。