
「イエスは彼らに言われた。これは多くの人のために流すわたしの血です」(マルコ14:24))
いよいよイエス様の最後の一日が始まります(14:17)。ユダヤの暦では一には日没から始まる。最初に夕があり夜となり闇があるがやがて朝の光の中に包まれていきます。日本では最初に朝となりだんだん薄暗くなり夜になっていく。どちらが聖書的な人生観でしょうか。創世記の1:5「夕があり朝があった。第一日」この言葉を知って、私は人生観が変わりました。イエス様はいよいよ十字架の苦難の道を、暗闇の中を歩みだします。しかし、その先には復活の朝が、希望の光が輝きだします。
Ⅰ 過ぎ越しの食事
イエス様はエルサレムの二階座敷で家族同然の弟子たちと過ぎ越しの食事を取りました。過ぎ越しの祭は、かつてイスラエル民族がエジプトの奴隷であったとき、モーセによって奇跡的にエジプトから解放されたことを記念して祝う祭りで、その中心は過ぎ越しの食事でした。料理の種類も決まっていて、食べる順番も17のプログラムに沿って定められていました。家族全員で食卓に着き、家長である祖父か父親がテーブルマスターとなり、出エジプトの出来事を子供や孫たちに語り伝え、賛美、祈り、パン裂き、葡萄酒を飲みます。こうしてユダヤ民族としての自覚と家族の絆を深めるのです。過ぎ越しの食事がイエス様の最後の晩餐の原型であり、最後の晩餐は聖餐式として受け継がれていくことになります。
Ⅱ 罪の赦しを与えるため、多くの人々のために流す、新しい契約の血
イエス様はテーブルマスターとして出エジプトの出来事を語る代わりに、ご自身の十字架の死の意義を改めて語られました。パンを裂き、これは「わたしのからだです」と語り、葡萄酒の入った杯を持ち「これは多くの人のために流される契約の血です」と語られました。これは明らかにイエスキリストの十字架の苦難と身代わりの死を表しています。マタイ福音書では「罪の赦しのために流される」(26:28)と明確に説明されています。特にここでは「契約の血」という言葉が重要です。
旧約時代、神とイスラエルの間には契約が結ばれました。シナイ山でモーセに十戒が与えられた時、雄牛が屠られ、その血の半分は神の祭壇に注がれ、半分は民に振りかけられました。血はいのちを表し同時に死を表します。もし契約を守るならば生かされ、もし契約を破るならばその責任は死をもって償わなくてはなりません。モーセはこれを神とイスラエルの「契約の血」(出24:3)と呼びました。
イエス様の十字架の死は、罪の赦しと救いをもたらす犠牲の死、贖いの身代わりの死でした。そして本来契約を破った人間が受けなければならない死の責任を、まるごとかぶってくださり、神の御子だけが血を流して、死の責任を果たしてくださったのです。イエス様が語られた「新しい血の契約」はこの無代価で提供された神の御子の十字架の贖いと、神の一方的な愛とを指しています。
「葡萄の実から取った物を二度と飲まない」とは、葡萄酒を今後飲まないという狭い意味ではなく、過ぎ越し食事そのものの完了(成就)を意味しています。もう行う必要がない、つまりこれが最後の過ぎ越しの食事であるという宣言なのです。最後の晩餐は最後の過ぎ越しの食事であり、新約時代においては、神の民のために新しい食卓が用意されるのです。
最後の晩餐は、最初の聖餐式となり、最後の過ぎ越しの食事となったことを指しています。主が再び来られるまで、教会は聖餐式を通して「神の御子キリストの十字架の死」と、そこにこめられた神の愛と恵みを語り伝え続けるのです(1コリント11:26)。
Ⅲ 過去、現在、未来をつなぐ聖餐式
聖餐式は、過去の十字架の出来事の記念ですが、見て聞いて食べて、信じて「今ここで現在を生きる」私たちが、十字架の愛を深く味わう時でもあるのです。多くの人々のためではなく、この罪深い「私のために」流された血潮として感謝して預かるのです。このため聖餐式は「感謝の祭り」(ユーカリスト)とも言われます。ルターは「パンの中に、パンとともに、パンの下に、聖体を実際に食べるのだと信じる」と言い、リアリティを強調しました(共存説)。多くの教会では、聖餐式において詩篇34:9、「味わい、見よ、主の恵みを」と朗読されますが、確かに意義深いことだと思います。
一つの食卓を囲む交わりの中に、甦られた主イエスキリストが御霊とともに臨在されるのです。「2-3人わたしの名によって集まるところに私もそこにともにいる」(マタイ18:19-20)との、主の約束はまさに「聖餐式の交わりと祈りと感謝」の只中に実現すると言えます。
さらに過去現在ばかりでなく、聖餐式は、「主が再び来られるまで」、つまり主の再臨の時に実現する「喜びの食事の先取り」でもあるのです。主が復活されたとき、エマオの村で二人の弟子たちと食事を共にされました、ガリラヤ湖で漁師に戻った弟子たちに岸辺でイエス様は朝の食事を用意し、弟子たちを励ましました。主の復活とともに神の国の祝宴はすでに始まっているのです。わたしたちが聖餐式に預かる時、それは小羊の婚宴(黙示録19:5)の先取りとしての意味を持つています。それゆえ聖餐式は、信仰と希望に満ちた天の食事でもあるのです。
聖餐式は、このように、過去、現在、未来をつなぐ3重の恵みに満ちています。
キリストの十字架の死を記念し、この赦しと救いが「血の契約」と呼ばれるほど確かなものであることを確認します。そして、一つの食卓を囲む交わりの中に、今ここにキリストが聖霊とともにおられることを感謝します。さらに、聖餐式は終末の大いなる祝宴の先取りであることを信仰によって喜び、主の再臨への希望を抱き、待ち望みます。
このような味わい深い聖餐式をどのように執り行って行くか、これからも皆さんと一緒に考えていきましょう。聖餐式を通して、私たちは信仰が高められます。聖餐式を通して私たちはキリストの愛をますます確認することができます。そして、やがてこられる再臨の主を迎える身支度が整えられるのです。
「アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」 (黙22:20)