【福音宣教】 「ペテロの否認と回復」

「するとペテロがイエスに言った「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29)                               

エルサレムの2階座敷で最後の過ぎ越しの食事をされたイエス様は、賛美しながらオリーブ山に向かいました。ゲッセマネの園で祈るためでした。その途上で弟子たちに「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう」と語られます。ここで言われる「つまずく」という言葉はユダのような決定的な裏切や、信仰をなくしてしまうことではなく、恐れや不安からイエス様のもとを一時的に逃げ出してしまうような脱落を意味します。

1.    人間的な熱意の危うさ 弱さを知らない強がり

イエス様の言葉にすぐさま反応したのがペテロでした。「他のものがつまずいても私はつまずきません」(29)。大丈夫です!と威勢の良いところを見せました。イエス様が「明け方、鶏が鳴くまでに三度あなたは私を知らないというであろう」(30)と答えると、ペテロはますます躍起になって「決して(絶対に)ありません」(31)と言い切りました。ルカの福音書22:33ではペテロは「たとえ獄の中でも、死にまでも」とまで言い切っています。だいたい絶対とか、こうに違いないと断言するようなときは怪しいものです。

自分の弱さを知らないあるいは気がついていない人は、しばしば大きな失敗をまねくことになりかねません。過度な強がりを見せるのはしばしば自分の臆病さを隠すためであったりもします。

ペテロは確かに「岩」とイエス様からあだ名されるほど、主を愛する強い意志を持っていました。そして他の誰よりも熱情家でした。世の中には熱しやすく冷めやすい人が多くいますが、ペテロの熱情にはそのようなムラはありませんでした。どっちかと言えば「熱しやすく暴走しやすい」直情型の人物と言えます。ですからイエス様がローマ兵の一団に逮捕されそうになると、あと先考えずに、短剣を抜いて切りかかり大祭司のしもべマルコスの耳を切り落としてしまいました。もしローマ兵が反撃したら弟子たちは皆殺しにされるリスクがありましたから、イエス様は「剣をさやに納めなさい」と命じ、マルコスの耳をすぐさま癒されました。 他の仲間が恐れて闇に紛れて身を隠したとき、ペテロとヨハネの二人だけは、先の大祭司アンナスの屋敷の中庭までイエス様の後をついて行きました。たいへん勇気のいることでした。でもそこまでがペテロの強さの限界、人間的な熱心さの限界でした。門番の女性から「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」(ヨハネ18:17)とささやかれただけで、臆病になり、「そんな人は知らない」と言ってイエス様を拒んでしまいました。

人間には「絶対」などはない。人間的な強さは、人間的な弱さやもろさの裏返しでもある。

しばしば教会生活や信仰生活で、自分の弱さやしんどさや不安を隠して、明るく平気を装ってしまうことがあります。ちゃんとしなければならないという強迫観念にとらわれてしまうためです。「今日は調子が良くないの、最近、いろいろあって低空飛行なのよ、祈ってね」と言えるならば、真の信仰の交わりと言えるのではないでしょうか。聖書は弱い時こそ私は強いという逆説的真理(2コリント12:9-10)を教えています。イエス様はそういう人間の弱さをよく理解しておられましたが、それだけではありませんでした。イエス様はつねに、物事を神の側から見ておられました。

2.    羊飼いが打たれると羊たちは散る 神の視点とご計画

イエス様は、ペテロを筆頭に、弟子たちが逃げ隠れてしまうことを、ゼカリヤ13:7節を引用して予告されました。父なる神が「羊飼いを打つと、羊たちは散らされてしまう」というのです。羊飼いとはイエス様のこと、打つとは十字架の苦難と死、羊たちとはイエス様の弟子たちの小さな群れを指します。

イエス様が逮捕された時、闇に紛れてどの弟子たちも、イエス様を見捨てて逃げだしてしまいました(マタイ26:56)。ユダが裏切ろうと、ペテロが三度、イエス様を否もうと、イエス様は逮捕され、やがて十字架刑に処せられます。それは神の深いみ旨に基づくご計画であり、神が定められた唯一の救いの道であったからです。神の御意志を人間が変えることなどできません。

人間の目から見れば裏切りがありつまずきがあり、怒りや悲しみがありますが、神の側から見れば、それは、神の御意志とご計画と値しないものを愛し、赦し、救おうとする、神の愛と憐れみの中で、すべてが導かれていることがらです。神は人間のつまずきや失敗すらも包み込んで、救いのみ旨を推し進められるお方です。人を見るのではなくただ神のみを見なさいと教会ではしばしば言われます。イエス様は、ただ父のみこころだけを仰ぎ見て、神が定められた唯一の救いの道である、十字架を目指して歩み続けられたのです。

3.    つまずき失敗した者の立ち直り

イエス様はご自分の羊たち、すなわち弟子たちを「散らした」ままにはなさいません。父なる神が散らしたなら、神はキリストによって再び散らした羊を一つに集められます。イエス様はつまずき失敗した者を捨て置かれません。迷い出た羊を探し出し、連れ戻されます。消えかかったともしびを油をそそいでふたたび輝かしてくださいます。では、どのようにして、立ち直らせてくださるのでしょうか。聖書の教えは単純です。失敗したらいつも信仰の原点に帰ることです。

1.    イエス様は「あなたが私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」(ヨハネ15;16)と約束されました。これが原点です。人間の愛も誓いも選びもあやふやで頼りないものです。しかし神の選びと愛と約束は確かで揺るがず、永遠の愛に基づいています。この原点を試練や困難の中で見失ってしまうとき、絶望的なったり懐疑的になったりして立ち上がれなくなるのです。

ある牧師は、「信仰生活はモーターボートで前を向いて全力で進むのではなく、手漕ぎボートで自分が出発した岸を見て、漕ぎ進むようなものです」と言いました。ゴールは神ご自身が導かれる。私たちはどこから誰によって救い出されたか、罪と滅びの縄目からどのように贖われたか、十字架の救いをいつも見続けていく、十字架の主イエスを見続けていくときに、私たちは勝利することができます。

2.    第二は、イエス様の祈りに支えられていることです。私たちは父なる神に祈ります。イエス様に祈ります。しかし、私たちが祈る前に、イエス様によってすでに祈られていることを覚えましょう。

ルカ22:31-32では、「あなたの信仰がなくならないように、わたしはあなたのために祈った」と主イエスはペテロに語りかけています。私たちはイエスの祈りの中に置かれているのです。そして「立ち直ったなら他の者たちを励ましてやりなさい」とまで語られています。だから、私たちはつまずき倒れても、立ち直ることができるのです。

それだけではありません。失敗した者の失敗を、失敗で終わらせはしないと主イエスは語り掛けます。立ち直ったなら、その苦い経験を生かして、兄弟たちを励ましてあげなさい。その弱さと失敗を通して励まし、慰めてあげなさい。あなたのつまずきや失敗を通して、主イエスはあなたを成長させてくださる。だから失敗は終わりではないというのです。本当の失敗とはなんでしょうか? 失敗を恐れて何もしないことこそ本当の失敗なのですから。

この世の中では「強さ」や「人よりも優れた能力」や「優秀さ」が求められます。しかし、イエス様の弟子たちの交わりはそうであってはなりません。むしろ、わたしたちは弱さの中で出会い、弱さを通してお互いを知り、弱さを通して結び合い、弱さの中から引き上げられ互いを支え合うように招かれています。弱さを隠す必要はありません。私たちの弱さは恵みの豊かな器となるのですから。

ペテロの恐れやつまずき、失敗や挫折のすべてを、イエス様は赦し、回復し、むしろ兄弟たちを励ますようにペテロを導かれたように、私たちもお互いの弱さや失敗を赦し、温かく励まし合って、歩んでいくものでありたいと願います。